告白とか、空想上の懐疑とかいう批評のある所以《ゆえん》である。
田中喜一[#「田中喜一」に丸傍点]氏は、そういう現代人の性急《せっかち》なる心を見て、極《きわ》めて恐るべき笑い方をした。曰《いわ》く、「あらゆる行為の根底であり、あらゆる思索の方針である智識を有せざる彼等文芸家が、少しでも事を論じようとすると、観察の錯誤と、推理の矛盾と重畳《ちょうじょう》百出《ひゃくしゅつ》するのであるが、これが原因を繹《たず》ねると、つまり二つに帰する。その一つは彼等が一時の状態を永久の傾向であると見ることであり、もう一つは局部の側相《そくしょう》を全体の本質と考えることである」
自己を軽蔑する心、足を地から離した心、時代の弱所を共有することを誇りとする心、そういう性急な心をもしも「近代的」というものであったならば、否、所謂《いわゆる》「近代人」はそういう心を持っているものならぱ、我々は寧《むし》ろ退いて、自分がそれ等の人々よりより多く「非近代的」である事を恃《たの》み、かつ誇るべきである。そうして、最も性急《せっかち》ならざる心を以て、出来るだけ早く自己の生活その物を改善し、統一し徹底すべきとこ
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