ないか。少くとも、そういう実際の社会生活上の問題を云々《うんぬん》しない事を以て、忠実なる文芸家、溌溂《はつらつ》たる近代人の面目であるというように見せている、或いは見ている人はないか。実際上の問題を軽蔑《けいべつ》する事を近代の虚無的傾向であるというように速了している人はないか。有る――少くとも、我々をしてそういう風に疑わしめるような傾向が、現代の或る一隅に確《たしか》に有ると私は思う。
三
性急な心は、目的を失った心である。この山の頂きからあの山の頂きに行かんとして、当然経ねばならぬところの路《みち》を踏まずに、一足飛びに、足を地から離した心である。危い事この上もない。目的を失った心は、その人の生活の意義を破産せしめるものである。人生の問題を考察するという人にして、もしも自分自身の生活の内容を成しているところの実際上の諸問題を軽蔑し、自己その物を軽蔑するものでなければならぬ。自己を軽蔑する人、地から足を離している人が、人生について考えるというそれ自体が既に矛盾であり、滑稽《こっけい》であり、かつ悲惨である。我々は何をそういう人々から聞き得るであろうか。安価なる告白とか、空想上の懐疑とかいう批評のある所以《ゆえん》である。
田中喜一[#「田中喜一」に丸傍点]氏は、そういう現代人の性急《せっかち》なる心を見て、極《きわ》めて恐るべき笑い方をした。曰《いわ》く、「あらゆる行為の根底であり、あらゆる思索の方針である智識を有せざる彼等文芸家が、少しでも事を論じようとすると、観察の錯誤と、推理の矛盾と重畳《ちょうじょう》百出《ひゃくしゅつ》するのであるが、これが原因を繹《たず》ねると、つまり二つに帰する。その一つは彼等が一時の状態を永久の傾向であると見ることであり、もう一つは局部の側相《そくしょう》を全体の本質と考えることである」
自己を軽蔑する心、足を地から離した心、時代の弱所を共有することを誇りとする心、そういう性急な心をもしも「近代的」というものであったならば、否、所謂《いわゆる》「近代人」はそういう心を持っているものならぱ、我々は寧《むし》ろ退いて、自分がそれ等の人々よりより多く「非近代的」である事を恃《たの》み、かつ誇るべきである。そうして、最も性急《せっかち》ならざる心を以て、出来るだけ早く自己の生活その物を改善し、統一し徹底すべきとこ
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