為す所を知らざる者に御座候。
[#地から1字上げ](四月廿五日夜)

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 四月二十六日午後一時。
 夜来の春雨猶止まずして一山風静かに、窓前の柳松《りうしよう》翠色《すゐしよく》更に新たなるを覚え、空廊に響く滴水の音、濡羽をふるふ鶯の声に和して、艶だちたる幽奥の姿誠に心地よく候。この雨収まらば、杜陵は万色一時に発《ひら》く黄金幻境に変ず可くと被存候《ぞんぜられさふらふ》。
 今日は十時頃に朝餐を了へて、(小生の経験によれば朝寝を嫌ひな人に、話せる男は少なき者に御座候呵々)二時間許り愛国詩人キヨルネルが事を繙読《ほんどく》して痛くも心を躍らせ申候。張り詰めたる胸の動悸今猶静め兼ね候。抑々《そもそも》人類の「愛」は、万有の生命は同一なりてふ根本思想の直覚的意識にして、全能なる神威の尤《もつと》も円満なる表現とも申す可く、人生の諸有《あらゆる》経緯の根底に於て終始永劫普遍の心的基礎に有之候《これありさうら》へば、国家若しくは民族に対する愛も、世の道学先生の言ふが如き没理想的消極的理窟的の者には無之《これなく》、実に同一生命の発達に於ける親和協同の血族的
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