く行はれた。思慮ある作家に取つては、文學は最早單なる遊戲や詠嘆や忘我の國ではなくなつた。或人はこれを自家の忠實なる記録にしようとした。或人は其の中に自家の思想と要求とを託さうとした。又或人にあつては、文學は即ち自己に對する反省であり、批評であつた。文學と人生との接近といふ事から見れば、假令《たとへ》此の運動にたづさはらなかつた如何なる作家と雖も、遂に此運動を惹起したところの時代の精神に司配されずにゐる事は出來なかつた。事實は何よりの證據である。此意味から言へば、自然主義が確實に文壇を占領したといふのも敢て過言ではないであらう。
觀照と實行の問題も商量された。それは自然主義其物が單純な文藝上の問題でなかつた爲には、當然足を踏み入れねばならぬ路の一つであつた。――然し其の商量は、遂に何の滿足すべき結論をも我等の前に齎さなかつた。嘗て私は、それを自然主義者の墮落と觀た。が、更に振返つて考へた時に、問題其物のそれが當然の約束でなければならなかつた。と言ふよりは、寧ろ自然主義的精神が文藝上に占め得る領土の範圍――更に適切に言へば、文藝其物の本質から來るところの必然の運命でなければならなかつた。
自然主義が自然主義のみで完了するものでないといふ議論は、其處からも確實に認められなければならない。隨つて、今日及び今日以後の文壇の主潮を、自然主義の連續であると見、ないと見るのは、要するに、實に唯一種の名義爭ひでなければならない。自然主義者は明確なる反省を以て、今、其の最初の主張と文藝の本性とを顧慮すべきである。そして其の主張が文藝上に働き得るところの正當なる範圍を承認すると共に、今日までの運動の經過と、それが今日以後に及ぼすところの効果に就いて滿足すべきである。
それは何れにしても、文學の境地と實人生との間に存する間隔は、如何に巧妙なる外科醫の手術を以てしても、遂に縫合する事の出來ぬものであつた。假令我々が國と國との間の境界を地圖の上から消して了ふ時はあつても、此の間隔だけは何うする事も出來ない。
それあるが爲に、蓋し文學といふものは永久に其の領土を保ち得るのであらう。それは私も認めない譯には行かない。が又、それあるが爲に、特に文學者のみの經驗せねばならぬ深い悲しみといふものがあるのではなからうか。そして其の悲みこそ、實に彼の多くの文學者の生命を滅すところの最大の敵ではなから
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