う場末の、通り少なき広い街路《まち》は森閑として、空には黒雲が斑らに流れ、その間から覗いてゐる十八九日許りの月影に、街路に生えた丈低い芝草に露が光り、虫が鳴いてゐた。家々の窓の火光《あかり》だけが人懐かしく見えた。
『あゝ、月がある!』然う言つて私は空を見上げたが、後藤君は黙つて首を低《た》れて歩いた。痛むのだらう。吹くともない風に肌が緊《しま》つた。
 その儘少し歩いて行くと、区立の大きい病院の背後《うしろ》に出た。月が雲間に隠れて四辺《あたり》が蔭つた。
『やアれ、やれやれやれ――』といふ異様の女の叫声が病院の構内から聞えた。
『何だらう?』と私は言つた。
『狂人《きちがひ》さ。それ、其処にあるのが(と構内の建物の一つを指して、)精神病患者の隔離室なんだ。夜更になると僕の下宿まで那《あ》の声が聞える事がある。』
 その狂人共が暴れてるのだらう、ドン/\と板を敲く音がする。ハチ切れた様な甲高い笑声がする。
『畳たゝいて此方《こち》の人《ひとオ》――これ、此方《こち》の人、此方《こち》の人ツたら、ホホヽヽヽヽ。』
 それは鋭い女の声であつた。私は足を緩めた。
『狂人の多くなつた丈、我々の文明が進んだのだ。ハハヽヽ。』と後藤君は言出した。『君はまだ那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》声を聞かうとするだけ若い。僕なんかは其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》暇はない。聞えても成るべく聞かぬ様にしてる。他《ひと》の事よりア此方《こつち》の事だもの。』
 然うしてズシリ/\と下駄を引擦り乍ら先に立つて歩く。
『実際だ。』と私も言つたが、狂人の声が妙に心を動かした。普通の人間と狂人との距離が其時ズツと接近して来てる様な気がした。『後藤君も苦しいんだ!』其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]事を考へ乍ら、私は足元に眼を落して黙つて歩いた。
『ところで君、徐々《そろそろ》話を初めようぢやないか?』と後藤君は言出した。
『初めよう。僕は先刻《さつき》から待つてる。』と言つたが、その実私は既《も》う大した話でも無い様に思つてゐた。
『実はね、マア好い方の話なんだが、然し余程考へなくちや決行されない点もある――』
 然う言つて後藤君の話した
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