合していたことは事実である。そうしてこれはしばしば後者の一つの属性のごとく取扱われてきたにかかわらず、近来(純粋自然主義が彼の観照《かんしょう》論において実人生に対する態度を一決して以来)の傾向は、ようやく両者の間の溝渠《こうきょ》のついに越ゆべからざるを示している。この意味において、魚住氏の指摘はよくその時を得たものというべきである。しかし我々は、それとともにある重大なる誤謬《ごびゅう》が彼の論文に含まれているのを看過することができない。それは、論者がその指摘を一の議論として発表するために――「自己主張の思想としての自然主義[#「自然主義」に白三角傍点]」を説くために、我々に向って一の虚偽《きょぎ》を強要していることである。相矛盾せる両傾向の不思議なる五年間の共棲《きょうせい》を我々に理解させるために、そこに論者が自分勝手に一つの動機を捏造《ねつぞう》していることである。すなわち、その共棲がまったく両者共通の怨敵《おんてき》たるオオソリテイ――国家というものに対抗するために政略的に行われた結婚であるとしていることである。
それが明白なる誤謬、むしろ明白なる虚偽であることは、ここに詳
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