時代閉塞の現状
(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)
石川啄木
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)思索《しさく》的生活の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)比較的|明瞭《めいりょう》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「純粋自然主義がその理論上の最後を告げている」に白三角傍点]
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一
数日前本欄(東京朝日新聞の文芸欄)に出た「自己主張の思想としての自然主義」と題する魚住氏の論文は、今日における我々日本の青年の思索《しさく》的生活の半面――閑却《かんきゃく》されている半面を比較的|明瞭《めいりょう》に指摘した点において、注意に値《あたい》するものであった。けだし我々がいちがいに自然主義という名の下に呼んできたところの思潮には、最初からしていくたの矛盾《むじゅん》が雑然として混在していたにかかわらず、今日までまだ何らの厳密なる検覈《けんかく》がそれに対して加えられずにいるのである。彼らの両方――いわゆる自然主義者もまたいわゆる非自然主義者も、早くからこの矛盾をある程度までは感知していたにかかわらず、ともにその「自然主義」という名を最初からあまりにオオソライズして考えていたために、この矛盾を根柢まで深く解剖《かいぼう》し、検覈《けんかく》することを、そうしてそれが彼らの確執《かくしつ》を最も早く解決するものなることを忘れていたのである。かくてこの「主義」はすでに五年の間|間断《かんだん》なき論争を続けられてきたにかかわらず、今日なおその最も一般的なる定義をさえ与えられずにいるのみならず、事実においてすでに純粋自然主義がその理論上の最後を告げている[#「純粋自然主義がその理論上の最後を告げている」に白三角傍点]にかかわらず、同じ名の下に繰返さるるまったくべつな主張と、それに対する無用の反駁《はんばく》とが、その熱心を失った状態をもっていつまでも継続されている。そうしてすべてこれらの混乱の渦中《かちゅう》にあって、今や我々の多くはその心内において自己分裂のいたましき悲劇に際会しているのである。思想の中心を失っているのである。
自己主張的傾向が、数年前我々がその新しき思索的生活を始めた当初からして、一方それと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向(純粋自然主義)と結
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