石川啄木詩集
石川啄木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)雅典《アデン》

※[#]:外字の説明
(例)黒※[#「樞」の「木」に換えて「さんずい」]裡
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  啄木鳥

いにしへ聖者が雅典《アデン》の森に撞《つ》きし、
光ぞ絶えせぬみ空の『愛の火』もて
鋳《い》にたる巨鐘《おほがね》、無窮《むきゆう》のその声をぞ
染めなす『緑』よ、げにこそ霊の住家。
聞け、今、巷に喘《あへ》げる塵《ちり》の疾風《はやち》
よせ来て、若やぐ生命《いのち》の森の精の
聖《きよ》きを攻むやと、終日《ひねもす》、啄木鳥《きつつきどり》、
巡りて警告《いましめ》夏樹《なつき》の髄《ずゐ》にきざむ。

往《ゆ》きしは三千年《みちとせ》、永劫猶《えいごふなほ》すすみて
つきざる『時』の箭《や》、無象の白羽の跡
追ひ行く不滅の教よ。――プラトオ、汝《なんじ》が
浄きを高きを天路の栄《はえ》と云ひし
霊をぞ守りて、この森不断の糧《かて》、
奇《くし》かるつとめを小さき鳥のすなる。


  隠沼

夕影しづかに番《つがひ》の白鷺《しらさぎ》下り、
槇《まき》の葉枯《か》れたる樹下《こした》の隠沼《こもりぬ》にて、
あこがれ歌ふよ。――『その昔《かみ》、よろこび、そは
朝明《あさあけ》、光の揺籃《ゆりご》に星と眠り、
悲しみ、汝《なれ》こそとこしへ此処《ここ》に朽《く》ちて、
我が喰《は》み啣《ふく》める泥土《ひづち》と融《と》け沈みぬ。』――
愛の羽寄り添ひ、青瞳《せいどう》うるむ見れば、
築地《ついぢ》の草床、涙を我も垂《た》れつ。

仰《あふ》げば、夕空さびしき星めざめて、
しぬびの光よ、彩《あや》なき夢《ゆめ》の如《ごと》く、
ほそ糸ほのかに水底《みぞこ》に鎖《くさり》ひける。
哀歓かたみの輪廻《めぐり》は猶《なほ》も堪へめ、
泥土《ひづち》に似る身ぞ。ああさは我が隠沼、
かなしみ喰《は》み去る鳥さへえこそ来めや。


  マカロフ提督追悼の詩

(明治三十七年四月十三日、我が東郷大提督の艦隊大挙して旅順港口に迫るや、敵将マカロフ提督之《これ》を迎撃せむとし、倉皇令《さうくわうれい》を下して其旗艦ペトロパフロスクを港外に進めしが、武運や拙《つた》なかりけむ、我が沈設水雷に触れて、巨艦一爆、提督も亦《また》艦と運命を共にしぬ。)

嵐よ黙《もだ》せ、暗《やみ》打つその翼《つばさ》、
夜の叫びも荒磯《ありそ》の黒潮も、
潮にみなぎる鬼哭《きこく》の啾々《しうしう》も
暫《しば》し唸《うな》りを鎮《しづ》めよ。万軍の
敵も味方も汝が矛《ほこ》地に伏せて、
今、大水の響に我が呼ばふ
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。
彼を沈めて、千古の浪《なみ》狂ふ、
弦月遠きかなたの旅順口《りよじゆんこう》。

ものみな声を潜めて、極冬《こくとう》の
落日の威に無人の大砂漠
劫風《ごふふう》絶ゆる不動の滅の如、
鳴りをしづめて、ああ今あめつちに
こもる無言の叫びを聞けよかし。
きけよ、――敗者の怨《うら》みか、暗濤の
世をくつがへす憤怒《ふんぬ》か、ああ、あらず、――
血汐を呑《の》みてむなしく敗艦と
共に没《かく》れし旅順の黒※[#「樞」の「木」に換えて「さんずい」]裡《こくおうり》、
彼が最後の瞳《ひとみ》にかがやける
偉霊のちから鋭どき生の歌。

ああ偉《おほ》いなる敗者よ、君が名は
マカロフなりき。非常の死の波に
最後のちからふるへる人の名は
マカロフなりき。胡天《こてん》の孤英雄。
君を憶《おも》へば、身はこれ敵国の
東海遠き日本の一詩人、
敵乍《かたきなが》らに、苦しき声あげて
高く叫ぶよ、(鬼神も跪《ひざま》づけ、
敵も味方も汝《な》が矛《ほこ》地に伏せて、
マカロフが名に暫《しば》しは鎮まれよ。)
ああ偉《おほ》いなる敗将、軍神の
選びに入れる露西亜《ロシア》の孤英雄、
無情の風はまことに君が身に
まこと無情の翼をひろげき、と。

東亜の空にはびこる暗雲の
乱れそめては、黄海波荒く、
残艦哀れ旅順の水寒き
影もさびしき故国の運命《さだめ》に、
君は起《た》ちにき、み神の名を呼びて――
亡びの暗《やみ》の叫びの見かへりや、
我と我が威に輝やく落日の
雲路しばしの勇みを負ふ如く。

壮《さかん》なるかなや、故国の運命を
担《にな》うて勇む胡天《こてん》の君が意気。
君は立てたり、旅順の狂風に
檣頭《しやうとう》高く日を射す提督《ていとく》旗。――
その旗、かなし、波間に捲《ま》きこまれ、
見る見る君が故国の運命と、
世界を撫《な》づるちからも海底に
沈むものとは、ああ神、人知らず。

四月十有三日、日は照らず、
空はくもりて、乱雲すさまじく
故天にかへる辺土の朝の海、
(海も狂へや、鬼神も泣き叫べ、
敵も味方も汝《な》が鋒地《ほこち》に伏せて、
マカロフが名に暫《しば》しは跪《ひざま》づけ。)
万雷波に躍《をど》りて、大軸を
砕《くだ》くとひびく刹那《せつな》に、名にしおふ
黄海の王者、世界の大艦も
くづれ傾むく天地の黒※[#「樞」の「木」に換えて「さんずい」]裡《こくおうり》、
血汐を浴びて、腕をば拱《こまぬ》きて、
無限の憤怒、怒濤《どたう》のかちどきの
渦巻く海に瞳を凝《こ》らしつつ、
大提督は静かに沈みけり。

ああ運命の大海、とこしへの
憤怒の頭擡《かしらもた》ぐる死の波よ、
ひと日、旅順にすさみて、千秋の
うらみ遺《のこ》せる秘密の黒潮よ、
ああ汝《なれ》、かくてこの世の九億劫《おくごふ》、
生と希望と意力《ちから》を呑み去りて
幽暗不知の界《さかひ》に閉ぢこめて、
如何《いか》に、如何なる証《あかし》を『永遠の
生の光』に理《ことわり》示すぞや。
汝《な》が迫害にもろくも沈み行く
この世この生、まことに汝《なれ》が目に
映るが如く値のなきものか。

ああ休《や》んぬかな。歴史の文字は皆
すでに千古の涙にうるほひぬ。
うるほひけりな、今また、マカロフが
おほいなる名も我身の熱涙に。――
彼は沈みぬ、無間《むげん》の海の底。
偉霊のちからこもれる其《その》胸に
永劫《えいごふ》たえぬ悲痛の傷うけて、
その重傷《おもきず》に世界を泣かしめて。

我はた惑《まど》ふ、地上の永滅《えいめつ》は、
力を仰ぐ有情の涙にぞ、
仰ぐちからに不断の永生の
流転《るてん》現ずる尊《たふ》ときひらめきか。
ああよしさらば、我が友マカロフよ、
詩人の涙あつきに、君が名の
叫びにこもる力に、願《ねがは》くは
君が名、我が詩、不滅の信《まこと》とも
なぐさみて、我この世にたたかはむ。

水無月《みなづき》くらき夜半《よは》の窓に凭《よ》り、
燭にそむきて、静かに君が名を
思へば、我や、音なき狂瀾裡《きやうらんり》、
したしく君が渦巻く死の波を
制す最後の姿を観《み》るが如《ごと》、
頭《かうべ》は垂れて、熱涙《ねつるゐ》せきあへず。
君はや逝《ゆ》きぬ。逝きても猶《なほ》逝かぬ
その偉《おほ》いなる心はとこしへに
偉霊を仰ぐ心に絶えざらむ。
ああ、夜の嵐、荒磯《ありそ》のくろ潮も、
敵も味方もその額《ぬか》地に伏せて
火焔《ほのほ》の声をあげてぞ我が呼ばふ
マカロフが名に暫《しば》しは鎮まれよ。
彼を沈めて千古の浪狂ふ
弦月遠きかなたの旅順口。


  眠れる都

(京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を開けば、竹林の崖下、一望甍《いらか》の谷ありて眼界を埋めたり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に月照りて、永く山村僻陬《へきすう》の間にありし身には、いと珍らかの眺めなりしか。一夜興をえて匆々《さうさう》筆を染めけるもの乃《すなは》ちこの短調七聯《れん》の一詩也。「枯林」より「二つの影」までの七篇は、この甍の谷にのぞめる窓の三週の仮住居になれるものなりき)

鐘鳴りぬ、
いと荘厳《おごそか》に
夜は重し、市《いち》の上。
声は皆眠れる都
瞰下《みおろ》せば、すさまじき
野の獅子《しし》の死にも似たり。

ゆるぎなき
霧の巨浪《おほなみ》、
白う照る月影に
氷りては市を包みぬ。
港なる百船《ももふね》の、
それの如《ごと》、燈影《ほかげ》洩《も》るる。

みおろせば、
眠れる都、
ああこれや、最後《をはり》の日
近づける血潮の城か。
夜の霧は、墓の如、
ものみなを封じ込めぬ。

百万の
つかれし人は
眠るらし、墓の中。
天地《あめつち》を霧は隔てて、
照りわたる月かげは
天《あめ》の夢地にそそがず。

声もなき
ねむれる都、
しじまりの大いなる
声ありて、霧のまにまに
ただよひぬ、ひろごりぬ、
黒潮のそのどよみと。

ああ声は
昼のぞめきに
けおされしたましひの
打なやむ罪の唸《うな》りか。
さては又、ひねもすの
たたかひの名残《なごり》の声か。

我が窓は、
濁《にご》れる海を
遶《めぐ》らせる城の如、
遠寄《とほよ》せに怖れまどへる
詩《うた》の胸守りつつ、
月光を隈《くま》なく入れぬ。


  東京

かくやくの夏の日は、今
子午《しご》線の上にかかれり。

煙突の鉄の林や、煙皆、煤黒《すすぐろ》き手に
何をかも攫《つか》むとすらむ、ただ直《ひた》に天をぞ射《さ》せる。
百千網《ももちあみ》巷巷《ちまたちまた》に空車行く音もなく
あはれ、今、都大路に、大真夏光動かぬ
寂寞《せきばく》よ、霜夜の如く、百万の心を圧せり。

千万の甍《いらか》今日こそ色もなく打鎮《しづま》りぬ。
紙の片白き千ひらを撒《ま》きて行く通魔《とほりま》ありと、
家家の門や又窓《まど》、黒布に皆とざされぬ。
百千網都大路に人の影暁星の如
いと稀《まれ》に。――かくて、骨泣く寂滅《じやくめつ》死の都、見よ。

かくやくの夏の日は、今
子午線の上にかかれり。

何方《いづかた》ゆ流れ来ぬるや、黒星よ、真北の空に
飛ぶを見ぬ。やがて大路の北の涯《はて》、天路に聳《そそ》る
層楼の屋根にとまれり。唖唖《ああ》として一声、――これよ
凶鳥《まがどり》の不浄の烏《からす》。――骨あさる鳥なり、はたや、
死の空にさまよひ叫ぶ怨恨《ゑんこん》の毒嘴《どくはし》の鳥。

鳥啼《な》きぬ、二度。――いかに、其声の猶《なほ》終らぬに、
何方ゆ現れ来しや、幾尺の白髪かき垂れ、
いな光る剣捧《ささ》げし童顔の翁《おきな》あり。ああ、
黒長裳《くろながも》静かに曳《ひ》くや、寂寞の戸に反響《こだま》して、
沓《くつ》の音全都に響き、唯一人大路を練れり。
有りとある磁石の針は
子午線の真北を射せり。


  角笛《つのぶえ》

みちのくの谷の若人、牧の子は
若葉衣の夜心に、
赤葉の芽ぐみ物燻《く》ゆる五月《さつき》の丘の
柏《かしは》木立をたもとほり、
落ちゆく月を背に負ひて、
東白《しののめ》の空のほのめき――
天《あめ》の扉《と》の真白き礎《もと》ゆ湧く水の
いとすがすがし。――
ひたひたと木陰地《こさぢ》に寄せて、
足もとの朝草小露明らみぬ。
風はも涼《すず》し。
みちのくの牧の若人露ふみて
もとほり心角《くだ》吹けば、
吹き、また吹けば、
渓川《たにがは》の石津瀬《いはつせ》はしる水音も
あはれ、いのちの小鼓《こつづみ》の鳴の遠音《とほね》と
ひびき寄す。
ああ静心《しづごころ》なし。
丘のつづきの草の上《へ》に
白き光のまろぶかと
ふとしも動く物の影。――
凹《くぼ》みの埓《かこひ》の中に寝て、
心うゑたる暁の夢よりさめし
小羊の群は、静かにひびき来る
角の遠音にあくがれて、
埓こえ、草をふみしだき、直《ひた》に走りぬ。
暁の声する方《かた》の丘の辺《へ》に。――
ああ歓《よろこ》びの朝の舞、
新乳《にひち》の色の衣して、若き羊は
角ふく人の身を繞《めぐ》り、
すずしき風に啼《な》き交《かは》し、また小躍《こをど》りぬ。
あはれ、いのちの高丘に
誰ぞ角吹かば、
我も亦《また》この世の埓をとびこえて、
野ゆき、川ゆき、森をゆき、
かの山越えて、海越えて、
行かましものと、
みちのくの谷の若人、いやさらに
角吹き吹きて、静心なし。


  年老いし彼は商人

年老いし彼は
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