町を帰り来れば、
ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。
――ひょろろろと、
また、ひょろろろと――

我は、ふと、涙ぐまれぬ。
げに、げに、わが心の餓《う》ゑて空《むな》しきこと、
今も猶《なほ》昔のごとし。


  わが友は、今日も

我が友は、今日もまた、
マルクスの「資本論《キヤプタル》」の
難解になやみつつあるならむ。

わが身のまはりには、
黄色なる小さき花片《はなびら》が、ほろほろと、
何故《なぜ》とはなけれど、
ほろほろと散るごときけはひあり。

もう三十にもなるといふ、
身の丈《たけ》三尺ばかりなる女の、
赤き扇《あふぎ》をかざして踊るを、
見世物《みせもの》にて見たることあり。
あれはいつのことなりけむ。

それはさうと、あの女は――
ただ一度我等の会合に出て
それきり来なくなりし――
あの女は、
今はどうしてゐるらむ。

明るき午後のものとなき静心《しづごごろ》なさ。


  家

今朝も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
つとめ先より一日の仕事を了《を》へて帰り来て、
夕餉《ゆふげ》の後
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