伏せて、
マカロフが名に暫《しば》しは跪《ひざま》づけ。)
万雷波に躍《をど》りて、大軸を
砕《くだ》くとひびく刹那《せつな》に、名にしおふ
黄海の王者、世界の大艦も
くづれ傾むく天地の黒※[#「樞」の「木」に換えて「さんずい」]裡《こくおうり》、
血汐を浴びて、腕をば拱《こまぬ》きて、
無限の憤怒、怒濤《どたう》のかちどきの
渦巻く海に瞳を凝《こ》らしつつ、
大提督は静かに沈みけり。

ああ運命の大海、とこしへの
憤怒の頭擡《かしらもた》ぐる死の波よ、
ひと日、旅順にすさみて、千秋の
うらみ遺《のこ》せる秘密の黒潮よ、
ああ汝《なれ》、かくてこの世の九億劫《おくごふ》、
生と希望と意力《ちから》を呑み去りて
幽暗不知の界《さかひ》に閉ぢこめて、
如何《いか》に、如何なる証《あかし》を『永遠の
生の光』に理《ことわり》示すぞや。
汝《な》が迫害にもろくも沈み行く
この世この生、まことに汝《なれ》が目に
映るが如く値のなきものか。

ああ休《や》んぬかな。歴史の文字は皆
すでに千古の涙にうるほひぬ。
うるほひけりな、今また、マカロフが
おほいなる名も我身の熱涙に。――
彼は沈みぬ、無間《むげん》の海の底。
偉霊のちからこもれる其《その》胸に
永劫《えいごふ》たえぬ悲痛の傷うけて、
その重傷《おもきず》に世界を泣かしめて。

我はた惑《まど》ふ、地上の永滅《えいめつ》は、
力を仰ぐ有情の涙にぞ、
仰ぐちからに不断の永生の
流転《るてん》現ずる尊《たふ》ときひらめきか。
ああよしさらば、我が友マカロフよ、
詩人の涙あつきに、君が名の
叫びにこもる力に、願《ねがは》くは
君が名、我が詩、不滅の信《まこと》とも
なぐさみて、我この世にたたかはむ。

水無月《みなづき》くらき夜半《よは》の窓に凭《よ》り、
燭にそむきて、静かに君が名を
思へば、我や、音なき狂瀾裡《きやうらんり》、
したしく君が渦巻く死の波を
制す最後の姿を観《み》るが如《ごと》、
頭《かうべ》は垂れて、熱涙《ねつるゐ》せきあへず。
君はや逝《ゆ》きぬ。逝きても猶《なほ》逝かぬ
その偉《おほ》いなる心はとこしへに
偉霊を仰ぐ心に絶えざらむ。
ああ、夜の嵐、荒磯《ありそ》のくろ潮も、
敵も味方もその額《ぬか》地に伏せて
火焔《ほのほ》の声をあげてぞ我が呼ばふ
マカロフが名に暫《しば》しは鎮まれよ。
彼を沈めて千古の
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