その翼《つばさ》、
夜の叫びも荒磯《ありそ》の黒潮も、
潮にみなぎる鬼哭《きこく》の啾々《しうしう》も
暫《しば》し唸《うな》りを鎮《しづ》めよ。万軍の
敵も味方も汝が矛《ほこ》地に伏せて、
今、大水の響に我が呼ばふ
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。
彼を沈めて、千古の浪《なみ》狂ふ、
弦月遠きかなたの旅順口《りよじゆんこう》。

ものみな声を潜めて、極冬《こくとう》の
落日の威に無人の大砂漠
劫風《ごふふう》絶ゆる不動の滅の如、
鳴りをしづめて、ああ今あめつちに
こもる無言の叫びを聞けよかし。
きけよ、――敗者の怨《うら》みか、暗濤の
世をくつがへす憤怒《ふんぬ》か、ああ、あらず、――
血汐を呑《の》みてむなしく敗艦と
共に没《かく》れし旅順の黒※[#「樞」の「木」に換えて「さんずい」]裡《こくおうり》、
彼が最後の瞳《ひとみ》にかがやける
偉霊のちから鋭どき生の歌。

ああ偉《おほ》いなる敗者よ、君が名は
マカロフなりき。非常の死の波に
最後のちからふるへる人の名は
マカロフなりき。胡天《こてん》の孤英雄。
君を憶《おも》へば、身はこれ敵国の
東海遠き日本の一詩人、
敵乍《かたきなが》らに、苦しき声あげて
高く叫ぶよ、(鬼神も跪《ひざま》づけ、
敵も味方も汝《な》が矛《ほこ》地に伏せて、
マカロフが名に暫《しば》しは鎮まれよ。)
ああ偉《おほ》いなる敗将、軍神の
選びに入れる露西亜《ロシア》の孤英雄、
無情の風はまことに君が身に
まこと無情の翼をひろげき、と。

東亜の空にはびこる暗雲の
乱れそめては、黄海波荒く、
残艦哀れ旅順の水寒き
影もさびしき故国の運命《さだめ》に、
君は起《た》ちにき、み神の名を呼びて――
亡びの暗《やみ》の叫びの見かへりや、
我と我が威に輝やく落日の
雲路しばしの勇みを負ふ如く。

壮《さかん》なるかなや、故国の運命を
担《にな》うて勇む胡天《こてん》の君が意気。
君は立てたり、旅順の狂風に
檣頭《しやうとう》高く日を射す提督《ていとく》旗。――
その旗、かなし、波間に捲《ま》きこまれ、
見る見る君が故国の運命と、
世界を撫《な》づるちからも海底に
沈むものとは、ああ神、人知らず。

四月十有三日、日は照らず、
空はくもりて、乱雲すさまじく
故天にかへる辺土の朝の海、
(海も狂へや、鬼神も泣き叫べ、
敵も味方も汝《な》が鋒地《ほこち》に
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