浪狂ふ
弦月遠きかなたの旅順口。


  眠れる都

(京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を開けば、竹林の崖下、一望甍《いらか》の谷ありて眼界を埋めたり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に月照りて、永く山村僻陬《へきすう》の間にありし身には、いと珍らかの眺めなりしか。一夜興をえて匆々《さうさう》筆を染めけるもの乃《すなは》ちこの短調七聯《れん》の一詩也。「枯林」より「二つの影」までの七篇は、この甍の谷にのぞめる窓の三週の仮住居になれるものなりき)

鐘鳴りぬ、
いと荘厳《おごそか》に
夜は重し、市《いち》の上。
声は皆眠れる都
瞰下《みおろ》せば、すさまじき
野の獅子《しし》の死にも似たり。

ゆるぎなき
霧の巨浪《おほなみ》、
白う照る月影に
氷りては市を包みぬ。
港なる百船《ももふね》の、
それの如《ごと》、燈影《ほかげ》洩《も》るる。

みおろせば、
眠れる都、
ああこれや、最後《をはり》の日
近づける血潮の城か。
夜の霧は、墓の如、
ものみなを封じ込めぬ。

百万の
つかれし人は
眠るらし、墓の中。
天地《あめつち》を霧は隔てて、
照りわたる月かげは
天《あめ》の夢地にそそがず。

声もなき
ねむれる都、
しじまりの大いなる
声ありて、霧のまにまに
ただよひぬ、ひろごりぬ、
黒潮のそのどよみと。

ああ声は
昼のぞめきに
けおされしたましひの
打なやむ罪の唸《うな》りか。
さては又、ひねもすの
たたかひの名残《なごり》の声か。

我が窓は、
濁《にご》れる海を
遶《めぐ》らせる城の如、
遠寄《とほよ》せに怖れまどへる
詩《うた》の胸守りつつ、
月光を隈《くま》なく入れぬ。


  東京

かくやくの夏の日は、今
子午《しご》線の上にかかれり。

煙突の鉄の林や、煙皆、煤黒《すすぐろ》き手に
何をかも攫《つか》むとすらむ、ただ直《ひた》に天をぞ射《さ》せる。
百千網《ももちあみ》巷巷《ちまたちまた》に空車行く音もなく
あはれ、今、都大路に、大真夏光動かぬ
寂寞《せきばく》よ、霜夜の如く、百万の心を圧せり。

千万の甍《いらか》今日こそ色もなく打鎮《しづま》りぬ。
紙の片白き千ひらを撒《ま》きて行く通魔《とほりま》ありと、
家家の門や又窓《まど》、黒布に皆とざされぬ。
百千網都大路に人の影暁星の如
いと稀《まれ》に。――かくて、骨泣く寂滅《じやくめ
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