刑余の叔父
石川啄木
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)投網打《とあみうち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)源作|叔父様《おんつあん》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)怖る/\
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一
一年三百六十五日、投網打《とあみうち》の帰途《かへり》に岩鼻の崖から川中へ転げ落ちて、したたか腰骨を痛めて三日寝た、その三日だけは、流石に、盃を手にしなかつたさうなと不審がられた程の大酒呑、酒の次には博奕《ばくち》が所好《すき》で、血醒《ちなまぐさ》い噂に其名の出ぬ事はない。何日《いつ》誰が言つたともなく、高田源作は村一番の乱暴者と指されてゐた。それが、私の唯《たつた》一人の叔父。
我々姉弟は、「源作|叔父様《おんつあん》」と呼んだものである。母の肉身《しんみ》の弟ではあつたが、顔に小皺の寄つた、痩せて背の高い母には毫《すこし》も肖《に》た所がなく、背がずんぐりの、布袋《ほてい》の様な腹、膨切《はちき》れる程酒肥りがしてゐたから、どしりどしりと歩く態《さま》は、何時見ても強さうであつた。扁《ひらた》い、膩《あぶら》ぎつた、赤黒い顔には、深く刻んだ縦皺が、真黒な眉と眉の間に一本。それが、顔|全体《いつたい》を恐ろしくして見せるけれども、笑ふ時は邪気《あどけ》ない小児《こども》の様で、小さい眼を愈々小さくして、さも面白相に肩を撼《ゆす》る。至つて軽口の、捌《さば》けた、竹を割つた様な気象で、甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》人の前でも胡坐《あぐら》しかかいた事のない代り、又、甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]人に対しても牆壁《しやうへき》を設ける事をしない。
少年等《こどもら》が好きで、時には、厚紙の軍帽《しやつぽ》やら、竹の軍刀《サアベル》板端《いたつぱし》の村田銃、其頃|流行《はや》つた赤い投弾《なげだま》まで買つて呉れて、一隊の義勇兵の為に一日の暇を潰《つぶ》す事もあつた。気が向くと、年長《としかさ》なのを率《つ》れて、山狩、川狩。自分で梳《す》いた小鳥網から叉手網《さであみ》投網、河鰺網《かじかあみ》でも押板でも、其道の道具は皆揃つてゐたもの。鮎の時節が来れば、日に四十から五十位まで掛ける。三十以上掛ける様になれば名人なさうである。それが、皆、商売にやるのではなくて、酒の肴を獲《え》る為なのだ。
妙なところに鋭い才があつて、勝負事には何にでも得意な人であつた。それに、野良仕事一つ為た事が無いけれど、三日に一度の喧嘩に、鍛えに鍛えた骨節が強くて、相撲、力試し、何でも一人前やる。就中《なかんづく》、将棋と腕相撲が公然《おもてむき》の自慢で、実際、誰にも負けなかつた。博奕は近郷での大関株、土地《ところ》よりも隣村に乾分《こぶん》が多かつたさうな。
不得手なのは攀木《きのぼり》に駈競《かけつくら》。あれだけは若者共に敵《かな》はないと言つてゐた。脚が短かい上に、肥つて、腹が出てゐる所為《せゐ》なのである。
五間幅の往還、くわツくわと照る夏の日に、短く刈込んだ頭に帽子も冠らず、腹を前に突出して、懐手《ふところで》で暢然《ゆつたり》と歩く。前下りに結んだ三尺がだらしなく、衣服《きもの》の袵《まへ》が披《はだか》つて、毛深い素脛《からツつね》が遠慮もなく現はれる。戸口に凭れてゐる娘共には勿論の事、逢ふ人毎に此方から言葉をかける。茫然《ぼんやり》立つてゐる小児でもあれば、背後《うしろ》から窃《そつ》と行つて、目隠しをしたり、唐突《いきなり》抱上げて喫驚《びつくり》さしたりして、快ささうに笑つて行く。千日紅の花でも後手に持つた、腰曲りの老媼《ばばあ》でも来ると、
『婆さんは今日もお寺詣りか?』
『あいさ。暑い事《こつ》たなす。』
『暑いとも、暑いとも。恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》日にお前《めえ》みたいな垢臭い婆さんが行くと、如来様も昼寝が出来ねえで五月蠅《うるさ》がるだあ。』
『エツヘヘ。源作さあ何日《いつ》でも気楽で可《え》えでヤなあ。』
『俺讃めるな婆さん一人だ。死んだら極楽さ伴《つ》れてつてやるべえ。』と言つた調子。
酔つた時でも別段の変りはない。死んだ祖父に当る人によく似たと、母が時々言つたが、底無しの漏斗《じやうご》、一升二升では呼気《いき》が少し臭くなる位なもの。顔色が顔色だから、少し位の酒気は見えないといふ得もあつた。徹夜《よどほし》三人で一斗五升飲んだといふ翌朝《あくるあさ》でも、物言ひが些《ち》と舌蕩《したたる》く聞える許りで、挙動《ものごし》から歩き振りから、確然《しつかり》としてゐた。一体私は、此叔父の蹣跚《よろよろ》した千鳥足と、少しでも慌てた態《さま》を見た事がなかつた。も一つ、幾何《いくら》酔つた時でも、唄を歌ふのを聞いた事がない。叔父は声が悪かつた。
それが、怎して村一番の乱暴者《あばれもの》かといふに、根が軽口の滑稽《しやれ》に快く飲む方だつたけれど、誰かしら酔ひに乗じて小生意気な事でも言出すと、座が曝《しら》けるのを怒るのか、
『馬鹿野郎! 行けい。』
と、突然《いきなり》林の中で野獣でも吼える様に怒鳴りつける。対手がそれで平伏《へこたま》れば可いが、さもなければ、盃を擲《な》げて、唐突《いきなり》両腕を攫んで戸外《そと》へ引摺り出す。踏む、蹴る、下駄で敲く、泥溝《どぶ》へ突仆《つきのめ》す。制《と》める人が無ければ、殺しかねまじき勢ひだ。滅多に負ける事がない。
それは、三日に一度必ずある。大抵夜の事だが、時とすると何日も何日も続く。又、自分が飲んでゐない時でも、喧嘩と聞けば直ぐ駆出して行つて、遮二無二中に飛込む。
喧嘩の帰途《かへり》は屹度私の家へ寄る。顔に血の附いてる事もあれば、衣服《きもの》が泥だらけになつてる事もあつた。『姉、姉、姉。』と戸外《そと》から叫んで来て、『俺ア今喧嘩して来た。うむ、姉、喧嘩が悪いか? 悪いか?』と入つて来る。
母は、再《また》かと顔を顰《しか》める。叔父は上框《あがりがまち》に突立つて、『悪いなら悪いと云へ。沢山《うんと》怒れ。汝《うな》の小言など屁でもねえ!』と言つて、『馬鹿野郎。』とか、『この源作さんに口一つ利いて見ろ。』とか、一人で怒鳴りながら出て行く。其度、姉や私等は密接《くつつき》合つて顫へたものだ。
『源作が酒と博奕を止めて呉れると喃《なあ》!』
と、父はよく言ふものであつた。『そして、少し家業に身を入れて呉れると可《え》えども。』と、母が何日《いつ》でも附加へた。
私が、まだ遙《ずつ》と稚なかつた頃、何か強情でも張つて泣く様な時には、
『それ、まだ源作|叔父様《おんつあん》が酔つて来るぞ。』と、姉や母に嚇《おど》されたものである。
二
村に士族が三軒あつた。何れも旧南部藩の武家《さむらひ》、廃藩置県の大変遷、六十余州を一度に洗つた浮世の波のどさくさに、相前後して盛岡の城下から、この農村《ひやくしやうむら》に逼塞《ひつそく》したのだ。
其一軒は、東《ひがし》といつて、眇目《めつかち》の老人の頑固《つむじまがり》が村人の気受に合はなかつた。剰《おまけ》に、働盛りの若主人が、十年近く労症を煩《わづら》つた末に死んで了つたので、多くもなかつた所有地《もちち》も大方人手に渡り、仕方なしに、村の小児《こども》相手の駄菓子店を開いたといふ仕末で、もう其頃――私の稚かつた頃――は、誰も士族扱ひをしなかつた。私は、其店に買ひに行く事を、堅く母から禁ぜられてゐたものである。其|理由《わけ》は、かの眇目の老人が常に私の家に対して敵意を有つてるとか言ふので。
東の家に美しい年頃の娘があつた。お和歌さんと言つた様である。私が六歳《むつつ》位の時、愛宕《あたご》神社の祭礼《おまつり》だつたか、盂蘭盆《うらぼん》だつたか、何しろ仕事を休む日であつた。何気なしに裏の小屋の二階に上つて行くと、其お和歌さんと源作叔父が、藁の中に寝てゐた。お和歌さんは「呀《あ》ツ。」と言つて顔をかくした様に記憶《おぼ》えてゐる。私は目を円《まろ》くして、梯子口から顔を出してると、叔父は平気で笑ひながら、「誰にも言ふな。」と言つて、お銭《あし》を呉れた。其|翌日《あくるひ》、私が一人裏伝ひの畑の中の路を歩いてると、お和歌さんが息をきらして追駈《おつか》けて来て、五本だつたか十本だつたか、黒羊※[#「羔/((美−大)/人)」、180−下−15]をどつさり呉れて行つた事がある。其以後《それから》といふもの、私はお和歌さんが好で、母には内密《ないしよ》で一寸々々《ちよいちよい》、東の店に痰切飴《たんきり》や氷糸糖《アルヘイ》を買ひに行つた。眇目の老人さへゐなければ、お和歌さんは何時でも負けてくれたものだ。
残余《あと》の二軒は、叔父の家《うち》と私の家。
高田家と工藤家――私の家――とは、小身ではあつたが、南部初代の殿様が甲斐の国から三戸《さんのへ》の城に移つた、其時からの家臣なさうで、随分古くから縁籍の関係があつた。嫁婿の遣取《やりとり》も二度や三度でなかつたと言ふ。盛岡の城下を引掃《ひきはら》ふ時も、両家で相談した上で、多少の所有地《もちち》のあつたのを幸ひ、此村に土着する事に決めたのださうな。私の母は高田家の総領娘であつた。
尤も、高田家の方が私の家よりも、少し格式が高かつたさうである。寝物語に色々な事を聞かされたものだが、時代が違ふので、私にはよく理解《のみこ》めなかつた。高田家の三代許り以前《まへ》の人が、藩でも有名な目附役で、何とかの際に非常な功績《てがら》をしたと言ふ事と、私の祖父《おぢい》さんが鉄砲の名人であつたと言ふ事だけは記憶《おぼ》えてゐる。其祖父さんが殿様から貰つたといふ、今で謂つたら感状といつた様な巻物が、立派な桐の箱に入つて、刀箱と一緒に、奥座敷の押入に蔵つてあつた。
四人の同胞《きやうだい》、総領の母だけが女で、残余《あと》は皆男。長男も次男も、不幸《ふしあはせ》な事には皆二十五六で早世して、末ツ子の源作叔父が家督を継いだ。長男の嫁には私の父の妹が行つたのださうだが、其頃は盛岡の再縁先で五人の子供の母親になつてゐた。次男は体の弱い人だつたさうである。其嫁は隣村の神官の家から来たが、結婚して二年とも経たぬに、唖の女児《をんなのこ》を遺して、盲腸炎で死んだ。其時、嫁のお喜勢さん(と母が呼んでゐた。)は別段泣きもしなかつたと、私の母は妙に恨みを持つてゐたものである。事情はよく知らないが、源作叔父は其儘、嫂《あによめ》のお喜勢さんと夫婦《いつしよ》になつた。お政といふ唖の児も、実は源作の種だらうといふ噂も聞いた事がある。
私の物心ついた頃、既に高田家に老人《としより》が無かつた。私の家にもなかつた。微《かす》かに記憶えてゐる所によれば、私が四歳《よつつ》の年に祖父《おぢい》さんが死んで、狭くもない家一杯に村の人達が来た。赤や青や金色銀色の紙で、花を拵へた人もあつたし、お菓子やら餅やら沢山貰つた。私は珍らしくて、嬉しくつて、人と人との間を縫つて、室《へや》から室と跳歩いたものだ。
道楽者の叔父は、飲んで、飲んで、田舎一般の勘定日なる盆と大晦日の度、片端《かたつぱじ》から田や畑を酒屋に書入れて了つた。残つた田畑は小作に貸して、馬も売つた。家の後の、目印になつてゐた大欅まで切つて了つた。屋敷は荒れるが儘。屋根が漏つても繕はぬ。障子が破れても張換へない。叔父の事にしては、家が怎《ど》うならうと、妻子が甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2
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