−94−57]《どんな》服装《なり》をしようと、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事は従頭《てんで》念頭にない。自分一人、誰にも頭を下げず、言ひたい事を言ひ、為たい事をして、酒さへ飲めれば可《よ》かつたのであらう。
それに引代へて私の家は、両親共四十の坂を越した分別盛り、(叔父は三十位であつた。)父は小心な実直者で、酒は真《ほん》の交際《つきあひ》に用ゆるだけ。四書五経を読んだ頭脳《あたま》だから、村の人の信頼が厚く、承諾はしなかつたが、村長になつて呉れと頼込まれた事も一度や二度ではなかつた。町村制の施行以後、村会議員には欠けた事がない。共有地の名儀人にも成つてゐた。田植時の水喧嘩、秣刈場《まぐさかりば》の境界争ひ、豊年祭の世話役、面倒臭がりながらも顔を売つてゐた。余り壮健《ぢやうぶ》でなく、痩せた、図抜けて背の高い人で、一日として無為《ぶゐ》に暮せない性質《たち》なのか、一時間と唯坐つては居ない。何も用のない時は、押入の中を掃除したり、寵愛の銀煙管を研《みが》いたりする。田植刈入に監督を怠らぬのみか、股引に草鞋穿《わらぢばき》で、躬《みづか》ら田の水見にも廻れば、肥料《こえ》つけの馬の手綱も執る。家にも二人まで下男がゐたし、隣近所の助勢《すけて》も多いのだから、父は普通《あたりまへ》なら囲炉裏の横座に坐つてゐて可いのだけれど、「俺は稼ぐのが何よりの楽《たのしみ》だ。」と言つて、露程も旦那風を吹かせた事がない。
随つて、工藤様といへば、村の顔役、三軒の士族のうちで、村方から真実《ほんと》に士族扱ひされたのは私の家一軒であつた。敢《あへ》て富有《かねもち》といふではないが、少許《すこし》は貸付もあつた様だし、田地と信用とは、増すとも減る事がない。穀蔵に広い二階|立《だて》の物置小屋、――其|階下《した》が土間になつてゐて、稲扱《いねこき》の日には、二十人近くの男女が口から出放題の戯談《じようだん》やら唄やらで賑つたものだ。庭には小さいながらも池があつて、赤い黒い、尺許りの鯉が十|尾《ぴき》も居た。家の前には、其頃村に唯一つの衡門《かぶきもん》が立つてゐた。叔父の家のは、既《とう》に朽ちて了つたのである。
母と叔父とは、齢も十《とを》以上違つて居たし、青い面長と扁《ひらた》い赤良顔《あからがほ》、鼻の恰好が稍《やや》肖《に》てゐた位のものである。背の※[#「女+亭」、第3水準1−15−85]乎《すらり》とした、髪は少し赤かつたが、若い時は十人並には見えたらうと思はれる容貌《かほかたち》。其頃もう小皺が額に寄つてゐて、持病の胃弱の所為《せゐ》か、膚《はだ》は全然《まるで》光沢《つや》がなかつた。繁忙《いそがし》続きの揚句は、屹度一日枕についたものである。愚痴《ぐちツ》ぽくて、内気で、苦労性で、何事も無い日でも心から笑ふといふ事は全たくなかつた。わけても源作叔父の事に就いては、始終《しよつちゆう》心を痛めてゐたもので、酔はぬ顔を見る度、何日《いつ》でも同じ様な繰事《くりごと》を列《なら》べては、フフンと叔父に鼻先であしらはれてゐた。見す見す実家《さと》の零落して行くのを、奈何《いかん》ともする事の出来ない母の心になつて見たら、叔父の道楽が甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》に辛く悲く思はれたか知れない。
恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》両親の間に生れた、最初の二人は二人とも育たずに死んで、程経て生れた三番目が姉、十五六で、矢張内気な性質《たち》ではあつたが、娘だけに、母程陰気ではなかつた。姉の次に二度許り流産が続いたので、姉と私は十歳《とを》違ひ。
三
記憶は至つて朧気《おぼろげ》である。が、私の両親は余り高田家を訪ふ事がなかつた様である。叔父だけは毎日の様に来た。叔母も余り家を出なかつた。
私は五歳《いつつ》六歳《むつ》の頃から、三日に一度か四日に一度、必ず母に※[#「口+云」、第3水準1−14−87]吩《いひつ》かつて、叔父の家に行つたものである。餅を搗いても、団子を拵へても、五目鮨《ごもくずし》を炊いても、母は必ず叔父の家へ分けて遣る事を忘れない。或時は裏畑から採れた瓜や茄子を持つて行つた。或時は塩鮭《しほびき》の切身を古新聞に包んで持つて行つた。又或時は、姉と二人で、夜になつてから、五升樽に味噌を入れて持つて行つた事もある。下男に遣つては外聞が悪いと、母が思つたのであらう。
私は、叔父の家へ行くのが厭で厭で仕様がなかつた。叔父が居さへすれば何の事もないが、大抵は居ない。叔母といふ人は、今になつて考へて見ても随分好い感じのしない女《ひと》で、尻の大きい、肥つた、夏時などは側《そば》へ寄ると臭気《にほひ》のする程無精で、挙動《ものごし》から言葉から、半分眠つてる様な、小児心にも歯痒《はがゆ》い位|鈍々《のろのろ》してゐた。毛の多い、真黒な髪を無造作に束ねて、垢染みた衣服《きもの》に細紐の検束《だらし》なさ。野良稼ぎもしないから手は荒れてなかつたけれど、踵は嘗て洗つた事のない程黒い。私が入つて行くと、
『謙助(私の名)さんすか?』
と言つて、懈《だる》さうに炉辺《ろばた》から立つて来て、風呂敷包みを受取つて戸棚の前に行く。海苔巻でも持つて行くと、不取敢《とりあへず》それを一つ頬張つて、風呂敷と空のお重を私に返しながら、
『お有難う御座《ごあ》んすてなツす。』
と懶げに言ふのである。愛想一つ言ふでなく、笑顔さへ見せる事がなかつた。
顴骨《ほほぼね》の高い、疲労の色を湛へた、大きい眼のどんよりとした顔に、唇だけが際立つて紅かつた。其口が例外《なみはづ》れに大きくて、欠呻《あくび》をする度に、鉄漿《おはぐろ》の剥げた歯が醜い。私はつくづくと其顔を見てゐると、何といふ事もなく無気味になつて来て、怎うした連想なのか、髑髏《されかうべ》といふものは恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》ぢやなからうかと思つたり、紅い口が今にも耳の根まで裂けて行きさうに見えたりして、謂《い》ひ知れぬ悪寒《さむさ》に捉はれる事が間々あつた。
古い、暗い、大きい家、障子も襖《からかみ》も破れ放題、壁の落ちた所には、漆黒《まつくろ》に煤けた新聞紙を貼つてあつた。板敷にも畳にも、足触りの悪い程|土埃《ほこり》がたまつてゐた。それも其筈で、此家の小児等は、近所の百姓の子供と一緒に跣足《はだし》で戸外《そと》を歩く事を、何とも思つてゐなかつたのだ。納戸の次の、八畳許りの室が寝室《ねま》になつてゐたが、夜昼蒲団を布いた儘、雨戸の開く事がない。妙な臭気が家中に漂うてゐた。一口に謂へば、叔父の家は夜と黄昏との家であつた。陰気な、不潔な、土埃の臭ひと黴の臭ひの充満《みちみち》たる家であつた。笑声と噪《はしや》いだ声の絶えて聞こえぬ、湿つた、唖の様な家であつた。
その唖の様な家に、唖の児の時々発する奇声と、けたたましい小児等の泣声と、それを口汚なく罵る叔母の声とが、折々響いた。小児は五人あつた。唖のお政は私より二歳《ふたつ》年長《としうへ》、三番目一人を除いては皆女で、末ツ児は猶《まだ》乳《ち》を飲んでゐた。乳飲児を抱へて、大きい乳房を二つとも披《はだ》けて、叔母が居睡《ゐねむり》してる態を、私はよく見たものである。
五人の従同胞《いとこ》の中の唯一人の男児は、名を巡吉といつて、私より年少《としした》、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に火傷の痕の大きい禿のある児であつたが、村の駐在所にゐた木下といふ巡査の種だとかいふので、叔父は故意《わざ》と巡吉と命名《なづ》けたのださうな。其巡吉は勿論、何《ど》の児も何の児も汚ない扮装《みなり》をしてゐて、頸《くび》から手足から垢だらけ。私が行くと、毛虫の様な頭を振立てゝ、接踵《ぞろぞろ》出て来て、何れも母親に肖《に》た大きい眼で、無作法に私を見ながら、鼻を顰《しか》めて笑ふ奴もあれば、「何物《なに》持つて来たべ?」と問ふ奴もある。お政だけは笑ひもせず物も言はなかつた。私は小児心にも、何だか自分の威厳を蹂躙《ふみつけ》られる様な気がして、不快で不快で耐《たま》らなかつた。若しかして叔母に、遊んで行けとでも言はれると、不承不承に三分か五分、遊ぶ真似をして直ぐ遁《に》げて帰つたものだ。
私の母は、何時でも「那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》無精な女もないもんだ。」と叔母を悪く言ひながら、それでも猶何に彼《か》につけて世話する事を、怠らなかつた。或時は父に秘《かく》してまでも実家《さと》の窮状を援けた。
時としては、従同胞《いとこ》共が私の家へ遊びに来る。来るといつても、先づ門口へ来て一寸々々《ちよいちよい》内を覗きながら彷徨《うろうろ》してゐるので、母に声を懸けられて初めて入つて来る。其都度、私は左右《かにかく》と故障を拵へて一緒に遊ぶまいとする。母は憐愍《あはれみ》の色と悲哀《かなしみ》の影を眼一杯に湛へて、当惑気に私共の顔を等分に瞰下《みおろ》すのであつたが、結局矢張私の自由《わがまま》が徹《とほ》つたものである。
叔父は滅多に家に居なかつた。飲酒家《さけのみ》の癖で朝は早起であつたが、朝飯が済んでから一時間と家にゐる事はない。夜は遅くなつてから酔つて帰る。叔母や従同胞等《いとこら》は日が暮れて間もなく寝て了ふのだから、酔つた叔父は暗闇の中を手探り足探りに、己《おの》が臥床《ふしど》を見つけて潜《もぐ》り込むのだつたさうな。時としては何処かに泊つて家へは帰らぬ事もあつたと記憶《おぼ》えてゐる。そして、日がな一日、塵程の屈托が無い様に、陽気に物を言ひ、元気に笑つて、誰に憚る事もなく、酒を呑んで、喧嘩をして、勝つて、手当り次第に女を弄んで、平然《けろり》としてゐた。叔父は、叔母や従同胞共《いとこども》を愛してゐたとは思はれぬ。叔母や従同胞《いとこ》共も亦、叔父を愛してはゐなかつた様である。さればといつて、家にゐる時の叔父は、矢張|平然《けろり》としたもので、別段苦い顔をしてるでもなかつた。
四
時として、叔父は三日も四日も、或は七日も八日も続いて、些《ちつ》とも姿を見せぬ事があつた。其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事が、収穫《とりいれ》後から冬へかけて殊に多かつた様である。
飄然《ふらり》と帰つて来ると、屹度私に五十銭銀貨を一枚宛呉れたものである。叔父は私を愛してゐた。
加之《のみならず》、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]時は、何処から持つてくるものやら、鶏とか、雉子とか、鴨とか、珍らしい物を持つて来て、手づから料理して父と一緒に飲む。或年の冬、ちらちらと雪の降る日であつたが、叔父は例の如く三四日見えずにゐて、大きい雁を一羽重さうに背負つて来た事がある。父も私も台所の入口に出てみると、叔父は其雁を上框《あがりがまち》の板の上に下して、
『今朝隣村の鍛冶の忰の奴ア、これ二羽撃つて来たで、重《おも》がつけども一羽背負つて来たのせえ。』
と母に言つて、額の汗を拭いてゐた。
『大ぎな雁だ喃《なあ》。』
と父は驚いて、鳥の首を握つて持上げてみた。私の背の二倍程もある。怖る/\触つて見ると、毛が雪に濡れてゐるので、気味悪く冷たかつた。横腹《よこつぱら》のあたりに、一寸四方許り血が附いてゐたので、私は吃驚《びつくり》して手を引いた。鉄砲弾《てつぽうだま》の痕だと叔父は説明して、
『此方《こつち》にもある。これ。』と反対の脇の羽の下を見せると、成程|其所《そこ》にも血があつた。
『五匁弾だもの。恁《か》う貫通《ぶつとほ》されでヤ人だつて直ぐ死んで了ふせえ。』
人だつて死ぬと聞いて、私は妙な身顫
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