《みぶるひ》を感じた。
 軈《やが》て父は廻状の様なものを書いて、下男に持たしてやると、役場からは禿頭の村長と睡さうな収入役、学校の太田先生も、赧顔《あからがほ》の富樫巡査も、皆《みんな》莞爾《にこにこ》して遣つて来て、珍らしい雁の御馳走で、奥座敷の障子を開け放ち、酔興にも雪見の酒宴《さかもり》が始まつた。
 其時も叔父は、私にお銭《あし》を呉れる事を忘れなかつた。母は例《いつも》の如く不興な顔をして叔父を見てゐたが、四周《あたり》に人の居なくなつた時、
『源作や。』と小声で言つた。
『何せえ?』
『お前《めえ》、まだ善くねえ事《ごど》して来たな?』と怨めしさうに見る。
『可《え》えでば、黙つてるだあ。』
『そだつてお前、過般《こねえだ》も下田の千太|爺《おやぢ》の宅《どこ》で、巡査に踏込《ふんご》まれて四人許《よつたりばか》り捕縛《おせえ》られた風だし、俺ア真《ほん》に心配《しんぺえ》で……』
『莫迦《ばか》な。』
『何ア莫迦だつて? 家の事《ごと》も構《かま》ねえで、毎日飲んで博《ぶ》つて許りゐたら、高田の家ア奈何《どう》なるだべサ。そして万一|捕縛《おせえ》られでもしたら……』
『何有《なあに》、姉や心配無えでヤ。何《ど》の村さ行つたて、俺の酒呑んでゐねえ巡査一人だつて無えがら。』
『そだつてお前《めえ》……』
『可《え》えでヤ。』と言つた叔父の声は稍高かつた。『それよりや先づ鍋でも掛けたら可がべ。お静ツ子(私の姉)、徳利出せ、徳利出せ。俺や燗つけるだ。折角の雁汁に正宗、綺麗な白い手でお酌させだら、もつと好がべにナ。』と一人で陽気になつて、三升樽の口栓《くち》の抜けないのを、横さまに拳で擲つてゐた。
 母は気が弱いので、既《も》う目尻を袖口で拭つて、何か独りで囁※[#「口+需」、186−下5]《ぶつぶつ》呟《こぼ》しながら、それでも弟に※[#「口+云」、第3水準1−14−87]吩《いひつ》けられたなりに、大鍋をガチヤ/\させて棚から下してゐた。それを見ると私は、妙に母を愍《あはれ》む様な気持になつて、若し那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》事を叔父の顔を見る度に言つて、万一叔父が怒る様な事があつたら、母は奈何《どう》する積りだらうと、何だか母の思慮の足らないのが歯痒くて、それよりは叔父が恁《か》うして来た時には、口先許りでも礼を言つて喜ばせて置いたら可からう、などと早老《ませ》た事を考へてゐた。それと共に、母の小言などは屁《へ》とも思はぬ態度《そぶり》やら、赤黒い顔、強さうな肥つた体、巡査、鉄砲、雁の血、などが一緒になつて、何といふ事もなく叔父を畏《おそ》れる様な心地になつた。然しそれは、酒を喰《くら》ひ、博奕をうち、喧嘩をするから畏れるといふのではなく、其時の私には、世の中で源作叔父程|豪《えら》い人がない様に思はれたのだ。土地《ところ》でこそ左程でもないが、隣村へでも行つたら、屹度|衆人《みんな》が叔父の前へ来て頭を下げるだらう。巡査だつて然《さ》うに違ひない。時々持つて来る鶏や鴨は、其巡査が帰りの土産に呉れてよこしたのかも知れぬ。今朝だつて、鍛冶の忰といふ奴が、雁を二羽撃つて来た時、叔父が見て一羽売らないかと言ふと、「お前様《めえさま》ならタダで上げます。」と言つて、怎《ど》うしてもお銭《あし》を請取らなかつただらう、などと、取留《とりとめ》もない事を考へて、畏《おそ》る畏《おそ》る叔父を見た。叔父は、内赤に塗つた大きい提子《ひさげ》に移した酒を、更に徳利に移しながら、莞爾《にこつ》いた眼眸《めつき》で眤《じつ》と徳利の口を瞶《みつ》めてゐた。

     五

 巡吉の直ぐ下の妹(名前は忘れた。)が、五歳《いつつ》許りで死んだ。三日許り病んで、夜明方に死んだので何病気だつたか知らぬが、報知《しらせ》の来たのは、私がまだ起きないうちだつた。父は其日一日叔父の家に行つてゐた。夕方になつて、私も母に伴《つ》れられて行つた。[#地から2字上げ](未完)
[#地から1字上げ]〔生前未発表・明治四十一年七月稿〕



底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
   1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行
   1986(昭和61)年12月15日初版第6刷発行
※生前未発表、1908(明治41)年5〜6月執筆のこの作品の本文を、底本は、市立函館図書館所蔵啄木自筆原稿によっています。
入力:林 幸雄
校正:川山隆
ファイル作成:
2008年10月21日作成
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