呼子と口笛
石川啄木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)且《か》つ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)徹頭徹尾|煽動家《せんどうか》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]一九一一・六・一五・TOKYO
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  はてしなき議論の後
[#地から2字上げ]一九一一・六・一五・TOKYO

われらの且《か》つ読み、且つ議論を闘《たたか》はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜《ロシヤ》の青年に劣らず。
われらは何を為《な》すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳《こぶし》に卓をたたきて、
[#ここから横組み]‘V NAROD!’[#ここで横組み終わり]と叫び出《い》づるものなし。

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
[#ここから横組み]‘V NAROD!’[#ここで横組み終わり]と叫び出づるものなし。

此処にあつまれるものは皆青年なり、
常に世に新らしきものを作り出《い》だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
[#ここから横組み]‘V NAROD!’[#ここで横組み終わり]と叫び出づるものなし。

ああ、蝋燭《らふそく》はすでに三度も取り代へられ、
飲料《のみもの》の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、
若き婦人の熱心に変りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
[#ここから横組み]‘V NAROD!’[#ここで横組み終わり]と叫び出づるものなし。


  ココアのひと匙
[#地から2字上げ]一九一一・六・一五・TOKYO

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲《な》げつくる心を――
しかして、そは真面目《まじめ》にして熱心なる人の常に有《も》つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷《さ》めたるココアのひと匙《さじ》を啜《すす》りて、
そのうすにがき舌触《したざは》りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。


  激論
[#地から2字上げ]一九一一・六・一六・TOKYO

われはかの夜の激論を忘るること能《あた》はず、
新しき社会に於《お》ける‘権力’の処置に就《つ》きて、
はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと
われとの間に惹《ひ》き起されたる激論を、
かの五時間に亘《わた》れる激論を。

‘君の言ふ所は徹頭徹尾|煽動家《せんどうか》の言なり。’
かれは遂にかく言ひ放ちき。
その声はさながら咆《ほ》ゆるごとくなりき。
若《も》しその間に卓子《テエブル》のなかりせば、
かれの手は恐らくわが頭を撃《う》ちたるならむ。
われはその浅黒き、大いなる顔の
男らしき怒りに漲《みなぎ》れるを見たり。

五月の夜はすでに一時なりき。
或る一人の立ちて窓をあけたるとき、
Nとわれとの間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。
病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、
雨をふくめる夜風の爽《さわや》かなりしかな。

さてわれは、また、かの夜の、
われらの会合に常にただ一人の婦人なる
Kのしなやかなる手の指環を忘るること能はず。
ほつれ毛をかき上ぐるとき、
また、蝋燭の心《しん》を截《き》るとき、
そは幾度かわが眼の前に光りたり。
しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。
されど、かの夜のわれらの議論に於いては、
かの女《ぢょ》は初めよりわが味方なりき。


  書斎の午後
[#地から2字上げ]一九一一・六・一五・TOKYO

われはこの国の女を好まず。

読みさしの舶来の本の
手ざはりあらき紙の上に、
あやまちて零《こぼ》したる葡萄酒《ぶだうしゅ》の
なかなかに浸《し》みてゆかぬかなしみ。

われはこの国の女を好まず。


  墓碑銘
[#地から2字上げ]一九一一・六・一六・TOKYO

われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今も猶《なほ》尊敬す――
かの郊外の墓地の栗《くり》の木の下に
かれを葬りて、すでにふた月を経《へ》たれど。

実に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしかど、
なくてかなはぬ一人なりしが
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