或る時、彼の語りけるは、
‘同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能《あた》はず、
されど、我には何時にても起《た》つことを得る準備あり。’

‘かれの眼は常に論者の怯懦《けふだ》を叱責《しっせき》す。’
同志の一人はかくかれを評しき。
然《しか》り、われもまた度度《たびたび》しかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者――一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、且つ快活に働き、
暇あれば同志と語り、またよく読書したり。
かれは煙草も酒も用ゐざりき。

かれの真摯《しんし》にして不屈、且つ思慮深き性格は、
かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。
かれは烈しき熱に冒されて病の床に横《よこた》はりつつ、
なほよく死にいたるまで譫語《うはごと》を口にせざりき。

‘今日は五月一日なり、われらの日なり。’
これかれのわれに遺したる最後の言葉なり。
その日の朝、われはかれの病を見舞ひ、
その日の夕《ゆふべ》、かれは遂に永き眠りに入れり。

ああ、かの広き額と、鉄槌《てっつゐ》のごとき腕《かひな》と、
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と、
眼つぶれば今も猶わが前にあり。

彼の遺骸は、一個の唯物論者として、
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰《えら》びたる墓碑銘は左の如し、
‘われには何時にても起つことを得る準備あり。’


  古びたる鞄をあけて
[#地から2字上げ]一九一一・六・一六・TOKYO

わが友は、古びたる鞄《かばん》をあけて、
ほの暗き蝋燭《らふそく》の火影《ほかげ》の散らぼへる床に、
いろいろの本を取り出《い》だしたり。
そは皆この国にて禁じられたるものなりき。

やがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、
‘これなり’とわが手に置くや、
静かにまた窓に凭《よ》りて口笛を吹き出《い》だしたり。
そは美くしとにもあらぬ若き女の写真なりき。


  家
[#地から2字上げ]一九一一・六・二五・TOKYO

今朝《けさ》も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
つとめ先より一日の仕事を了《を》へて帰り来て、
夕餉《ゆふげ》の後の茶を啜《すす》り、煙草をのめば、
むらさきの煙の味のなつかしさ、
はかなくもまたそのことのひょっと心に浮び来る――
はかなくもまたかなしくも。

場所は、鉄道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
西洋風の木造のさっぱりとしたひと構へ、
高からずとも、さてはまた何の飾りのなくとても、
広き階段とバルコンと明るき書斎……
げにさなり、すわり心地のよき椅子《いす》も。

この幾年に幾度も思ひしはこの家のこと、
思ひし毎《ごと》に少しづつ変へし間取《まど》りのさまなどを
心のうちに描きつつ、
ラムプの笠《かさ》の真白きにそれとなく眼をあつむれば、
その家に住むたのしさのまざまざ見ゆる心地して、
泣く児に添乳《そへぢ》する妻のひと間の隅のあちら向き、
そを幸ひと口もとにはかなき笑《ゑ》みものぼり来る。

さて、その庭は広くして、草の繁《しげ》るにまかせてむ。
夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に
音立てて降るこころよさ。
またその隅にひともとの大樹を植ゑて、
白塗の木の腰掛を根に置かむ――
雨降らぬ日は其処《そこ》に出て、
かの煙濃く、かをりよき埃及《エジプト》煙草ふかしつつ、
四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の
本の頁を切りかけて、
食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、
また、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる
村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく……

はかなくも、またかなしくも、
いつとしもなく若き日にわかれ来りて、
月月のくらしのことに疲れゆく、
都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、
はかなくも、またかなしくも、
なつかしくして、何時《いつ》までも棄《す》つるに惜しきこの思ひ、
そのかずかずの満たされぬ望みと共に、
はじめより空《むな》しきことと知りながら、
なほ、若き日に人知れず恋せしときの眼付して、
妻にも告げず、真白なるラムプの笠を見つめつつ、
ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。


  飛行機
[#地から2字上げ]一九一一・六・二七・TOKYO

見よ、今日も、かの蒼空《あをぞら》に
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。



底本:「日本の文学15」中央公論
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