麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あんな》男なら、何人|先方《あつち》で入れても安心だよ。何日《いつ》だツたか、其菊池が、記者なり小使なりに使つて呉れツて、俺の所へ來た事があるんだ。可哀相だから入れようと思つたがね。』と、入口の方へ歩き出した。『前に來た時と後に來た時と、辻褄が合はん事を云つたから、之は怪しいと思つて斷つたさ。』
 私は然し、主筆が常に自己《おのれ》と利害の反する側の人を、好く云はぬ事を知つて居た。「先方《あつち》が六人で、此方よりは一人増えたな。」と云つた風な事を考へて玄關を出たが、
『君、二面だらうか、三面だらうか?』
と歩きながら小松君に問ひかけた時は、小松君は既に別の事を考へて居た。
『何がです?』
『菊池がさ。』
『さあ何方《どつち》ですか。櫻井の話だと、今日から出社する樣に云つてましたがね。』
 私共がドヤ/\と鹿島屋の奧座敷に繰込んだ時は、既《もう》七人許り集つて居た。一人二人を除いては、初對面の人許りなので、私は暫時《しばらく》の間名刺の交換に忙がしかつたが、それも一《ひと》しきり濟んで、莨に火をつけると、直ぐ、眞黒な顋鬚の男は未だ來てないと氣がついた。人々はよく私にも話しかけて呉れた。一座の中でも、背の低い、色の黒い、有るか無きかの髭を生やした、洋服|扮裝《いでたち》の醜男《ぶをとこ》が、四方八方に愛嬌を振舞いては、輕い駄洒落を云つて、顏に似合はぬ優しい聲でキャッ/\と笑ふ。
 十分許り經つて、「毎日」の西山社長と、私より一月程前に東京から來たといふ日下部編輯長とが入つて來た。日下部君は、五尺八寸もあらうかといふ、ガッシリした大男で、非常な大酒家だと聞いて居たが、如何樣《いかさま》眼は少しドンヨリと曇つて、服裝は飾氣なしの、新らしくも無い木綿の紋付を着て居た。
 西山社長は、主筆を兼ねて居るといふ事であつた。七子の羽織に仙臺平のりうとした袴、太い丸打の眞白な紐を胸高に結んだ態《さま》は、何處かの壯士芝居で見た惡黨辯護士を思出させた。三十五六の、面皰《にきび》だらけな細顏で、髭が無く、銀縁の近眼鏡をかけて居たが、眼鏡越に時々猜疑深い樣な目付をする。
『徐々《そろ/\》始めようぢやありませんか、大抵揃ひましたから。』
と、月番幹事の志田君、(先ほどから愛嬌を振舞つてゐた、色の黒い男)が云ひ出した。
 軈て膳部が運ばれた。「入交《いりまぜ》になつた方が可からう。」と云ふ、私の方の主筆の發端で、人々は一時ドヤドヤと立つたが、
『男振の好い人の中に入ると、私の顏が一層惡く見えて不可《いかん》けれども。』
と笑ひながら、志田君は私と西山社長との間に坐つた。
 酒となると談話が急に噪《はしや》ぐ。其處にも此處にも笑聲が起つた。五人の藝妓の十の袂が、銚子と共に忙がしく動いて、艶《なまめ》いた白粉の香が、四角に立てた膝をくづさせる。點けた許りの明るい吊洋燈《つるしランプ》の周匝《あたり》には、莨の煙が薄く渦を卷いて居た。
 親善を厚うするとか、相互の利害を議するとか、連絡を圖るとか、趣旨は頗る立派であつたけれど、月例會は要するに、飮んで、食つて、騷ぐ會なので、主筆の所謂人の惡い奴許りだから、隨分と方々に圓滑な皮肉が交換されて、其度にさも面白相な笑聲が起る。意外《とんだ》事を素破《すつぱ》拔かれた藝妓が、對手が新聞記者だけに、弱つて了つて、援助を朋輩に求めてるのもあれば、反對に藝妓から素破《すつぱ》拔かれて頭を掻く人もある。五人の藝妓の中、其處からも此處からも名を呼び立てられるのは、時々編集局でも名を聞く市子と謂ふので、先刻《さつき》膳を運ぶ時、目八分に捧げて、眞先に入つて來て、座敷の中央へ突立つた儘、「マア怎[#「怎」は底本では「恁」]うしよう、私は。」と、仰山に驚いた姿態《しな》を作つた妓《こ》であつた。それは私共が皆一團になつて、障子際に火鉢を圍んで居たから、御膳の据場所が無かつたからで。十六といふ齡には少し老《ま》せて居るが、限りなき愛嬌を顏一杯に漲らして、態とらしからぬ身振が人の氣を引いた。
 志田君は、盃を下にも置かず、相不變《あひかはらず》愛嬌を振舞いて居たが、お酌に※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて來た市子を捉へて私の前に坐らせ、兩手の盃を一つ私に獻《さ》して、
『市ちやん、此方は今度「日報」へお出になつた橘さんといふ方だ、お年は若し、情は深し、トまでは知らないが、豪い方だからお近付になつて置け。他日《あと》になつて惡い事は無いぞ。』
『アラ然《さ》うですか。お名前は新聞で承はつてましたけれど、何誰《どなた》かと思つて、遂……』と優容《しとやか》に頭を下げた。下げた頭の擧らぬうちに、
『これはおかめ[#「おかめ」に傍点]屋の市ちやん。唯三度しか男
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