そんな》事があつた爲ですか、昨晩《ゆうべ》頻りに、貴方《あなた》がお出にならないツて、金村の奴心配してましたよ。』
『感付かれたと思つてるだらうさ。』
『然《さ》う/\、まだ心配してた人がありましたよ。』
『誰だえ?』
『市ちやんが行つてましてね。』
『誰と?』
『些《ちつ》とは心配ですかな。』
『馬鹿な……ハハハ。』
『小高に花助と三人でしたが、何故お出にならないだらうツて、眞實《ほんと》に心配してましたよ。』
『風向が惡くなつたね。』
『ハッハハ。だが、今夜はお出になるでせう?』
『左樣、行つても好いけどね。』
『但し市ちやんは、今夜來られないさうですが。』
『ぢや止《よ》さうか。』
と云つて、二人は聲を合せて笑つた。
『立つてて聞きましたよ。』
と、お芳が菓子皿を持つて入つて來た。
『何を?』
『聞きましたよ、私。』
『お前の知つた人の事で、材料《たね》が上つたツて小松君が話した所さ。』
『嘘だよ。』
『高見さんを知つてるだらう?』と小松君が云ふ。
『知って居りますさ、家に居た人だもの。』
『高見ツてのは何か、以前《もと》社に居たとか云ふ……?』
『ハ、然《さ》うです。』
『高見さんが怎《どう》かしたてのかえ?』
『したか、しないか、お前さんが一番詳しく知つてる筈ぢやないか?』
『何云ふだべさ。』
『だつて、高見君が此家《こゝ》に居たのは本當だらう。』
『居ましたよ。』
『そして』
『そしてツて、私何も高見さんとは怎《どう》もしませんからさ。』
『ぢや誰と怎《どう》かしたんだい?』
『厭だ、私。』
と、足音荒くお芳が出て行く。
『馬鹿な奴だ。』
『天下の逸品ですね、アノ顏は。』
『ハハハ。皆に揶揄《からかは》れて嬉しがつてるから、可哀相《かあいさう》にも可哀相だがね。餓ゑたる女と云ふ奴かナ。』
『成程。ですけど、アノ顏ぢや怎《どう》も、マア揶揄《からか》つてやる位が一番の同情ですな。』
『それに餘程の氣紛れ者でね。稼ぎ出すと鼻唄をやり乍ら滅法稼いでるが、怠け出したら一日|主婦《おかみ》に怒鳴られ通しでも平氣なもんだ。それかと思ふと、夜の九時過に湯へ行つて來て、アノ階段《はしご》の下の小さな室で、一生懸命お化粧《つくり》をしてる事なんかあるんだ。正直には正直な樣だがね。』
『そら然《さ》うでせう。アノ顏で以て不正直と來た日にや、怎《どう》もなりませんからね。』
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