芳ちやんが、新聞を持つて入つて來たので、知つてる癖に『モウ何時だい』と聞くと、
『まだ早いから寢て居なされよ、今日は日曜だもの。』
と云つて出て行く。
『オイ/\、喉が渇いて仕樣が無いよ。』
『そですか。』
『そですかぢやない。眞《ほんと》に渇くんだよ、昨晩《ゆうべ》少し飮んで來たからな。』
『少しなもんですか。』
と云つたが、急にニヤ/\と笑つて立戻つて來て、私の枕頭に膝をつく。また戯《ぢや》れるなと思ふと、不恰好な赤い手で蒲團の襟を敲いて、
『私に一生《いつしよ》のお願ひがあるで、貴君《あんた》聽いて呉れますか?』
『何だい?』
『マアさ。』
『お湯を持つて來て呉れたら、聽いてやらん事もない。』
『持つて來てやるで。あのね、』と笑つたが『貴方|好《え》え物持つてるだね。』
『何をさ?』
『白ッぱくれても駄目ですよ。貴方の顏さ書いてるだに、半可臭《はんかくせ》え。』
『喉が渇いたとか?』
『戯談ば止しなされ。これ、そんだら何ですか。』と手を延べて、机の上から何か取る樣子。それは昨晩の淡紅色《ときいろ》の手巾《ハンカチ》であつた。市子が種蒔を踊つた時の腰付が、チラリと私の心に浮ぶ。
『嗅んで見さいな、これ。』と云つて自分で嗅いで居たが、小さい鼻がぴこづいて、目が恍惚《うつとり》と細くなる。恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》好い香を知らないんだなと思つて、私は何だか氣の毒な樣な氣持になつたが、不意と「左の袂、左の袂」と云つた菊池君を思出した。
『私《わし》貰つてくだよ、これ。』と云ふ語は、滿更|揶揄《からか》ふつもりでも無いらしい。
『やるよ。』
『本當がね。』と目を輝かして、懷に捻じ込む眞似をしたが、
『貴方が泣くべさ。』と云つて、フワリと手巾《ハンカチ》を私の顏にかけた儘、バタ/\出て行つた。
 目を瞑ると、好い香のする葩《はなびら》の中に魂が包まれた樣で、自分の呼氣《いき》が温かな靄の樣に顏を撫でる。※[#「りっしんべん+「夢」の「タ」に代えて「目」」、第4水準2−12−81]乎《ぼうつ》として目を開くと、無際限の世界が唯モウ薄光の射した淡紅色《ときいろ》の世界で、凝として居ると遙か遙か向うにポッチリと黒い點、千里の空に鷲が一羽、と思ふと、段々近づいて來て、大きくなつて、世界を掩ひ隱す樣な翼が、目の前に來てパット
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