弓町より
石川啄木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蝋燭《ろうそく》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)夫婦|喧嘩《げんか》をして

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(例)なり[#「なり」に白丸傍点]
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   食うべき詩

 詩というものについて、私はずいぶん長い間迷うてきた。
 ただに詩についてばかりではない。私の今日まで歩いてきた路は、ちょうど手に持っている蝋燭《ろうそく》の蝋のみるみる減っていくように、生活というものの威力のために自分の「青春」の日一日に減らされてきた路筋である。その時その時の自分を弁護するためにいろいろの理窟を考えだしてみても、それが、いつでも翌る日の自分を満足させなかった。蝋は減りつくした。火が消えた。幾十日の間、黒闇《くらやみ》の中に体を投げだしていたような状態が過ぎた。やがてその暗の中に、自分の眼の暗さに慣れてくるのをじっと待っているような状態も過ぎた。
 そうして今、まったく異なった心持から、自分の経てきた道筋を考えると、そこにいろいろいいたいことがあるように思われる。
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 以前、私も詩を作っていたことがある。十七八のころから二三年の間である。そのころ私には、詩のほかに何ものもなかった。朝から晩まで何とも知れぬものにあこがれている心持は、ただ詩を作るということによっていくぶん発表の路を得ていた。そうしてその心持のほかに私は何ももっていなかった。――そのころの詩というものは、誰も知るように、空想と幼稚な音楽と、それから微弱な宗教的要素(ないしはそれに類した要素)のほかには、因襲的な感情のあるばかりであった。自分でそのころの詩作上の態度を振返ってみて、一ついいたいことがある。それは、実感を詩に歌うまでには、ずいぶん煩瑣《はんさ》な手続を要したということである。たとえば、ちょっとした空地に高さ一丈ぐらいの木が立っていて、それに日があたっているのを見てある感じを得たとすれば、空地を広野にし、木を大木にし、日を朝日か夕日にし、のみならず、それを見た自分自身を、詩人にし、旅人にし、若き愁《うれ》いある人にした上でなければ、その感じが当時の詩の調子に合わず、また自分でも満足することができなかった。
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 二三年経った。私がその手続にだんだん慣れてきた時は、同時に私がそんな手続を煩《わずら》わしく思うようになった時であった。そうしてそのころのいわゆる「興《きょう》の湧いた時」には書けなくって、かえって自分で自分を軽蔑《けいべつ》するような心持の時か、雑誌の締切という実際上の事情に迫られた時でなければ、詩が作れぬというような奇妙なことになってしまった。月末になるとよく詩ができた。それは、月末になると自分を軽蔑せねばならぬような事情が私にあったからである。
 そうして「詩人」とか「天才」とか、そのころの青年をわけもなく酔わしめた揮発性《きはつせい》の言葉が、いつの間にか私を酔わしめなくなった。恋の醒めぎわのような空虚の感が、自分で自分を考える時はもちろん、詩作上の先輩に逢い、もしくはその人たちの作を読む時にも、始終私を離れなかった。それがその時の私の悲しみであった。そうしてその時は、私が詩作上に慣用した空想化の手続が、私のあらゆることに対する態度を侵していた時であった。空想化することなしには何事も考えられぬようになっていた。
 象徴詩という言葉が、そのころ初めて日本の詩壇に伝えられた。私も「吾々の詩はこのままではいけぬ」とは漠然とながら思っていたが、しかしその新らしい輸入物に対しては「一時の借物」という感じがついて廻った。
 そんならどうすればいいか? その問題をまじめに考えるには、いろいろの意味から私の素養が足らなかった。のみならず、詩作その事に対する漠然たる空虚の感が、私が心をその一処に集注することを妨げた。もっとも、そのころ私の考えていた「詩」と、現在考えている「詩」とは非常に違ったものであるのはむろんである。
 二十歳の時、私の境遇には非常な変動が起った。郷里《くに》に帰るということと結婚という事件とともに、何の財産なき一家の糊口《ここう》の責任というものが一時に私の上に落ちてきた。そうして私は、その変動に対して何の方針もきめることができなかった。およそその後今日までに私の享《う》けた苦痛というものは、すべての空想家――責任に対する極度の卑怯者《ひきょうもの》の、当然一度は受けねばならぬ性質のものであった。そうしてことに私のように、詩を作るということとそれに関聯した憐《あわ》れなプライドのほかには、何の技能ももっていない者においていっそう強く享《う》けねばならぬものであった。
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 詩を書いていた時分に対する回想は、未練から哀傷《あいしょう》となり、哀傷から自嘲《じちょう》となった。人の詩を読む興味もまったく失われた。眼を瞑《ねぶ》ったようなつもりで生活というものの中へ深入りしていく気持は、時としてちょうど痒《かゆ》い腫物《はれもの》を自分でメスを執《と》って切開するような快感を伴うこともあった。また時として登りかけた坂から、腰に縄《なわ》をつけられて後ざまに引き下《おろ》されるようにも思われた。そうして、一つ処にいてだんだんそこから動かれなくなるような気がしてくると、私はほとんど何の理由なしに自分で自分の境遇そのものに非常な力を出して反抗を企てた。その反抗はつねに私に不利な結果を齎《もたら》した。郷里《くに》から函館《はこだて》へ、函館から札幌《さっぽろ》へ、札幌から小樽《おたる》へ、小樽から釧路《くしろ》へ――私はそういう風に食を需《もと》めて流れ歩いた。いつしか詩と私とは他人同志のようになっていた。たまたま以前私の書いた詩を読んだという人に逢って昔の話をされると、かつていっしょに放蕩《ほうとう》をした友だちに昔の女の話をされると同じ種類の不快な感じが起った。生活の味いは、それだけ私を変化させた。「――新体詩人です」といって、私を釧路の新聞に伴れていった温厚《おんこう》な老政治家が、ある人に私を紹介した。私はその時ほど烈しく、人の好意から侮蔑を感じたことはなかった。
 思想と文学との両分野に跨《またが》って起った著明な新らしい運動の声は、食を求めて北へ北へと走っていく私の耳にも響かずにはいなかった。空想文学に対する倦厭《けんえん》の情と、実生活から獲《え》た多少の経験とは、やがて私しにもその新らしい運動の精神を享入《うけい》れることを得しめた。遠くから眺めていると、自分の脱けだしてきた家に火事が起って、みるみる燃え上がるのを、暗い山の上から瞰下《みおろ》すような心持があった。今思ってもその心持が忘られない。
 詩が内容の上にも形式の上にも長い間の因襲を蝉脱《せんだつ》して自由を求め、用語を現代日常の言葉から選ぼうとした新らしい努力に対しても、むろん私は反対すべき何の理由ももたなかった。「むろんそうあるべきである」そう私は心に思った。しかしそれを口に出しては誰にもいいたくなかった。いうにしても、「しかし詩には本来ある制約がある。詩が真の自由を得た時は、それがまったく散文になってしまった時でなければならぬ」というようなことをいった。私は自分の閲歴《えつれき》の上から、どうしても詩の将来を有望なものとは考えたくなかった。たまたまそれらの新運動にたずさわっている人々の作を、時おり手にする雑誌の上で読んでは、その詩の拙《つたな》いことを心ひそかに喜んでいた。
 散文の自由の国土! 何を書こうというきまったことはなくとも、漠然とそういう考えをもって、私は始終東京の空を恋しがっていた。
     ○
 釧路は寒い処であった。しかり、ただ寒い処であった。時は一月末、雪と氷に埋もれて、川さえおおかた姿を隠した北海道を西から東に横断して、着てみると、華氏《かし》零下二十―三十度という空気も凍《いて》たような朝が毎日続いた。氷った天、氷った土。一夜の暴風雪に家々の軒のまったく塞《ふさが》った様《さま》も見た。広く寒い港内にはどこからともなく流氷が集ってきて、何日も何日も、船も動かず波も立たぬ日があった。私は生れて初めて酒を飲んだ。
 ついに、あの生活の根調のあからさまに露出した北方植民地の人情は、はなはだしく私の弱い心を傷づけた。
 四百トン足らずの襤褸《ぼろ》船に乗って、私は釧路の港を出た。そうして東京に帰ってきた。
 帰ってきた私は以前の私でなかったごとく、東京もまた以前の東京ではなかった。帰ってきて私はまず、新らしい運動に同情を持っていない人の意外に多いのを見て驚いた。というよりは、一種の哀傷の念に打たれた。私は退いて考えてみた。しかし私が雪の中から抱いてきた考えは、漠然とした幼稚なものではあったが、間違っているとは思えなかった。そうしてその人たちの態度には、ちょうど私自身が口語詩の試みに対して持った心持に類似点があるのを発見した時、卒然として私は自分自身の卑怯《ひきょう》に烈しい反感を感じた。この反感の反感から、私は、まだ未成品であったためにいろいろの批議を免《まぬが》れなかった口語詩に対して、人以上に同情をもつようになった。
 しかしそのために、熱心にそれら新しい詩人の作を読むようになったのではなかった。それらの人々に同情するということは、畢竟《ひっきょう》私自身の自己革命の一部分であったにすぎない。もちろん自分がそういう詩を作ろうという気持になったこともなかった。「僕も口語詩を作る」といったようなことは幾度もいった。しかしそういう時は、「もし詩を作るなら」という前提を心に置いた時か、でなくば口語詩に対して極端な反感を抱いている人に逢った時かであった。
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 その間に、私は四五百首の短歌を作った。短歌! あの短歌を作るということは、いうまでもなく叙上の心持と齟齬《そご》している。
 しかしそれにはまたそれ相応の理由があった。私は小説を書きたかった。否、書くつもりであった。また実際書いてもみた。そうしてついに書けなかった。その時、ちょうど夫婦|喧嘩《げんか》をして妻に敗けた夫が、理由もなく子供を叱《しか》ったり虐《いじ》めたりするような一種の快感を、私は勝手気儘《かってきまま》に短歌という一つの詩形を虐使することに発見した。
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 やがて、一年間の苦しい努力のまったく空《むな》しかったことを認めねばならぬ日が来た。
 自分で自分を自殺しうる男とはどうしても信じかねながら、もし万一死ぬことができたなら……というようなことを考えて、あの森川町の下宿屋の一室で、友人の剃刀《かみそり》を持ってきて夜半ひそかに幾度となく胸にあててみた……ような日が二月も三月も続いた。
 そうしてるうちに、一時脱れていた重い責任が、否応《いやおう》なしにふたたび私の肩に懸《かか》ってきた。
 いろいろの事件が相ついで起った。
「ついにドン底に落ちた」こういう言葉を心の底からいわねばならぬようなことになった。
 と同時に、ふと、今まで笑っていたような事柄が、すべて、きゅうに、笑うことができなくなったような心持になった。
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 そうしてこの現在の心持は、新らしい詩の真の精神を、初めて私に味わせた。
「食《くら》うべき詩」とは電車の車内広告でよく見た「食うべきビール」という言葉から思いついて、かりに名づけたまでである。
 謂《い》う心は、両足を地面《じべた》に喰っつけていて歌う詩ということである。実人生と何らの間隔なき心持をもって歌う詩ということである。珍味ないしはご馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物のごとく、しかく我々に「必要」な詩ということである。――こういうことは詩を既定のある地位から引下すことであるかもし
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