れないが、私からいえば我々の生活にあってもなくても何の増減のなかった詩を、必要な物の一つにするゆえんである。詩の存在の理由を肯定するただ一つの途《みち》である。
以上のいい方はあまり大雑駁《おおざっぱ》ではあるが、二三年来の詩壇の新らしい運動の精神は、かならずここにあったと思う。否、あらねばならぬと思う。かく私のいうのは、それらの新運動にたずさわった人たちが二三年前に感じたことを、私は今始めて切実に感じたのだということを承認するものである。
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新らしい詩の試みが今までに受けた批評について、二つ三ついってみたい。
「なり[#「なり」に白丸傍点]とである[#「である」に白丸傍点]もしくはだ[#「だ」に白丸傍点]の相違にすぎない」という人があった。それは日本の国語がまだ語格までも変るほどには変遷《へんせん》していないということを指摘したにすぎなかった。
人の素養と趣味とは人によって違う。ある内容を表出せんとするにあたって、文語によると口語によるとは詩人の自由である。詩人はただ自己の最も便利とする言葉によって歌うべきである。という議論があった。いちおうもっともな議論である。しかし我々が「淋しい」と感ずる時に、「ああ淋しい」と感ずるのであろうか、はたまた「あな淋し」と感ずるであろうか。「ああ淋しい」と感じたことを「あな淋し」といわねば満足されぬ心には徹底と統一が欠けている。大きくいえば、判断=実行=責任というその責任を回避する心から判断をごまかしておく状態である。趣味という語は、全人格の感情的傾向という意味でなければならぬのだが、おうおうにして、その判断をごまかした状態の事のように用いられている。そういう趣味ならば、すくなくとも私にとっては極力|排斥《はいせき》すべき趣味である。一事は万事である。「ああ淋しい」を「あな淋し」といわねば満足されぬ心には、無用の手続があり、回避があり、ごまかしがある。それらは一種の卑怯《ひきょう》でなければならぬ。「趣味の相違だからしかたがない」とは人のよくいうところであるが、それは「いったとてお前に解りそうにないからもういわぬ」という意味でないかぎり、卑劣極まったいい方といわねばならぬ。我々は今まで議論以外もしくは以上の事として取扱われていた「趣味」というものに対して、もっと厳粛《げんしゅく》な態度をもたねばならぬ。
すこし別なことではあるが、先ごろ青山学院で監督か何かしていたある外国婦人が死んだ。その婦人は三十何年間日本にいて、平安朝文学に関する造詣《ぞうけい》深く、平生日本人に対しては自由に雅語《がご》を駆使《くし》して応対したということである。しかし、その事はけっしてその婦人がよく日本を了解《りょうかい》していたという証拠にはならぬではなかろうか。
詩は古典的でなければならぬとは思わぬけれども、現在の日常語は詩語としてはあまりに蕪雑《ぶざつ》である、混乱している、洗練されていない。という議論があった。これは比較的有力な議論であった。しかしこの議論には、詩そのものを高価なる装飾品のごとく、詩人を普通人以上、もしくは以外のごとく考え、または取扱おうとする根本の誤謬《ごびゅう》が潜《ひそ》んでいる。同時に、「現代の日本人の感情は、詩とするにはあまりに蕪雑である、混乱している、洗練されていない」という自滅《じめつ》的の論理を含んでいる。
新らしい詩に対する比較的まじめな批評は、主としてその用語と形式とについてであった。しからずんば不謹慎《ふきんしん》な冷笑であった。ただそれら現代語の詩に不満足な人たちに通じて、有力な反対の理由としたものが一つある。それは口語詩の内容が貧弱であるということであった。
しかしその事はもはやかれこれいうべき時期を過ぎた。
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とにもかくにも、明治四十年代以後の詩は、明治四十年代以後の言葉で書かれねばならぬということは、詩語としての適不適、表白の便不便の問題ではなくて、新らしい詩の精神、すなわち時代の精神の必要であった。私は最近数年間の自然主義の運動を、明治の日本人が四十年間の生活から編みだした最初の哲学の萌芽[#「最初の哲学の萌芽」に白丸傍点]であると思う。そうしてそれがすべての方面に実行を伴っていたことを多とする。哲学の実行という以外に我々の生存には意義がない。詩がその時代の言語を採用したということも、その尊い実行の一部であったと私は見る。
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むろん、用語の問題は詩の革命の全体ではない。
そんなら(一)将来の詩はどういうものでなければならぬか。(二)現在の諸詩人の作に私は満足するか。(三)そもそも詩人とは何ぞ。
便宜上私は、まず第三の問題についていおうと思う。最も手取早《てっとりばや》くいえば私は詩人という特殊なる人間の存在を否定する。詩を書く人を他の人が詩人と呼ぶのは差支《さしつかえ》ないが、その当人が自分は詩人であると思ってはいけない、いけないといっては妥当《だとう》を欠くかもしれないが、そう思うことによってその人の書く詩は堕落《だらく》する……我々に不必要なものになる。詩人たる資格は三つある。詩人はまず第一に「人」でなければならぬ。第二に「人」でなければならぬ。第三に「人」でなければならぬ。そうしてじつに普通人のもっているすべての物をもっているところの人でなければならぬ。
いい方がだいぶ混乱したが、一|括《かつ》すれば、今までの詩人のように直接詩と関係のない事物に対しては、興味も熱心も希望ももっていない――餓《う》えたる犬の食を求むるごとくにただただ詩を求め探している詩人は極力|排斥《はいせき》すべきである。意志薄弱なる空想家、自己および自己の生活を厳粛《げんしゅく》なる理性の判断から回避している卑怯者、劣敗者の心を筆にし口にしてわずかに慰めている臆病者、暇ある時に玩具《おもちゃ》を弄《もてあそ》ぶような心をもって詩を書きかつ読むいわゆる愛詩家、および自己の神経組織の不健全なことを心に誇る偽患者《にせかんじゃ》、ないしはそれらの模倣者《もほうしゃ》等、すべて詩のために詩を書く種類の詩人は極力排斥すべきである。むろん詩を書くということは何人にあっても「天職」であるべき理由がない。「我は詩人なり」という不必要な自覚が、いかに従来の詩を堕落せしめたか。「我は文学者なり」という不必要な自覚が、いかに現在において現在の文学を我々の必要から遠ざからしめつつあるか。
すなわち真の詩人とは、自己を改善し自己の哲学を実行せんとするに政治家のごとき勇気を有し、自己の生活を統一するに実業家のごとき熱心を有し、そうしてつねに科学者のごとき明敏なる判断と野蛮人《やばんじん》のごとき卒直なる態度をもって、自己の心に起りくる時々刻々の変化を、飾らず偽らず、きわめて平気に正直に記載《きさい》し報告するところの人でなければならぬ。
記載報告ということは文芸の職分の全部でないことは、植物の採集分類が植物学の全部でないと同じである。しかしここではそれ以上の事は論ずる必要がない。ともかく前いったような「人」が前いったような態度で書いたところの詩でなければ、私は言下《げんか》に「すくなくとも私には不必要だ」ということができる。そうして将来の詩人には、従来の詩に関する知識ないし詩論は何の用をもなさない。――たとえば詩(抒情詩)はすべての芸術中最も純粋なものであるという。ある時期の詩人はそういう言をもって自分の仕事を恥かしくないものにしようと努めたものだ。しかし詩はすべての芸術中最も純粋なものだということは、蒸溜水《じょうりゅうすい》は水の中で最も純粋なものだというと同じく、性質の説明にはなるかもしれぬが、価値必要の有無の標準にはならない。将来の詩人はけっしてそういうことをいうべきでない。同時に詩および詩人に対する理由なき優待をおのずから峻拒《しゅんきょ》すべきである。いっさいの文芸は、他のいっさいのものと同じく、我らにとってはある意味において自己および自己の生活の手段であり方法である。詩を尊貴なものとするのは一種の偶像崇拝《ぐうぞうすうはい》である。
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詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活(もっと適当な言葉もあろうと思うが)の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。したがって断片的でなければならぬ。――まとまり[#「まとまり」に丸傍点]があってはならぬ。(まとまり[#「まとまり」に丸傍点]のある詩すなわち文芸上の哲学は、演繹的《えんえきてき》には小説となり、帰納的《きのうてき》には戯曲となる。詩とそれらとの関係は、日々の帳尻《ちょうじり》と月末もしくは年末決算との関係である。)そうして詩人は、けっして牧師が説教の材料を集め、淫売婦がある種の男を探すがごとくに、何らかの成心をもっていてはいけない。
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粗雑《そざつ》ないい方ながら、以上で私のいわんとするところはほぼ解ることと思う。――いや、も一ついい残したことがある。それは、我々の要求する詩は、現在の日本に生活し、現在の日本語を用い、現在の日本を了解しているところの日本人によって歌われた詩[#「現在の日本を了解しているところの日本人によって歌われた詩」に白丸傍点]でなければならぬということである。
そうして私は、私自身現在の諸詩人の詩に満足するか否かをいう代りに、次の事をいいたい。――諸君のまじめな研究は外国語の知識に乏《とぼ》しい私の羨《うら》やみかつ敬服《けいふく》するところではあるが、諸君はその研究から利益とともにある禍《わざわ》いを受けているようなことはないか。かりにもし、ドイツ人は飲料水の代りに麦酒《ビール》を飲むそうだから我々もそうしようというようなこと……とまではむろんいくまいが、些少《さしょう》でもそれに類したことがあっては諸君の不名誉ではあるまいか。もっと卒直にいえば、諸君は諸君の詩に関する知識の日に日に進むとともに、その知識の上にある偶像を拵《こしら》え上げて、現在の日本を了解することを閑却《かんきゃく》しつつあるようなことはないか。両足を地面《じべた》に着けることを忘れてはいないか。
また諸君は、詩を詩として新らしいものにしようということに熱心なるあまり、自己および自己の生活を改善するという一大事を閑却してはいないか。換言すれば、諸君のかつて排斥《はいせき》したところの詩人の堕落《だらく》をふたたび繰返さんとしつつあるようなことはないか。
諸君は諸君の机上を飾っている美しい詩集の幾冊を焼き捨てて、諸君の企《くわだ》てた新運動の初期の心持に立還《たちかえ》ってみる必要はないか。
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以上は現在私が抱いている詩についての見解と要求とをおおまかにいったのであるが、同じ立場から私は近時の創作評論のほとんどすべてについていろいろいってみたいことがある。
底本:「日本文学全集 12 国木田独歩 石川啄木集」集英社
1967(昭和42)年9月7日初版発行
1972(昭和47)年9月10日9版発行
入力:j.utiyama
校正:八巻美恵
ファイル作成:野口英司
1998年11月11日公開
2005年11月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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