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二三年経った。私がその手続にだんだん慣れてきた時は、同時に私がそんな手続を煩《わずら》わしく思うようになった時であった。そうしてそのころのいわゆる「興《きょう》の湧いた時」には書けなくって、かえって自分で自分を軽蔑《けいべつ》するような心持の時か、雑誌の締切という実際上の事情に迫られた時でなければ、詩が作れぬというような奇妙なことになってしまった。月末になるとよく詩ができた。それは、月末になると自分を軽蔑せねばならぬような事情が私にあったからである。
そうして「詩人」とか「天才」とか、そのころの青年をわけもなく酔わしめた揮発性《きはつせい》の言葉が、いつの間にか私を酔わしめなくなった。恋の醒めぎわのような空虚の感が、自分で自分を考える時はもちろん、詩作上の先輩に逢い、もしくはその人たちの作を読む時にも、始終私を離れなかった。それがその時の私の悲しみであった。そうしてその時は、私が詩作上に慣用した空想化の手続が、私のあらゆることに対する態度を侵していた時であった。空想化することなしには何事も考えられぬようになっていた。
象徴詩という言葉が、そのころ初めて日本の詩壇に伝えられた。私も「吾々の詩はこのままではいけぬ」とは漠然とながら思っていたが、しかしその新らしい輸入物に対しては「一時の借物」という感じがついて廻った。
そんならどうすればいいか? その問題をまじめに考えるには、いろいろの意味から私の素養が足らなかった。のみならず、詩作その事に対する漠然たる空虚の感が、私が心をその一処に集注することを妨げた。もっとも、そのころ私の考えていた「詩」と、現在考えている「詩」とは非常に違ったものであるのはむろんである。
二十歳の時、私の境遇には非常な変動が起った。郷里《くに》に帰るということと結婚という事件とともに、何の財産なき一家の糊口《ここう》の責任というものが一時に私の上に落ちてきた。そうして私は、その変動に対して何の方針もきめることができなかった。およそその後今日までに私の享《う》けた苦痛というものは、すべての空想家――責任に対する極度の卑怯者《ひきょうもの》の、当然一度は受けねばならぬ性質のものであった。そうしてことに私のように、詩を作るということとそれに関聯した憐《あわ》れなプライドのほかには、何の技能ももっていない者においていっそう強く享《う
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