アノ人が云つてました。其戸を開けると、「石本か。」ツて云ふのが癖でしたが、この時は森《しん》として何とも云はないんです。不在かナと思ひましたが、歸つて來るまで待つ積りで上り込んで見ると、不在ぢやない、居るんです。居るには居ましたが、僕の這入つたのも知らぬ風で、木像の樣に俯向いて矢張り考へ込んで居るんですナ。「何《ど》うしました?」と聲をかけると、ヒョイと首を上げて「石本か。君は運命の樣だナ。」と云ふ。何故ですかツて聞くと、「さうぢやないか、不意の侵入者だもの。」と淋しさうに笑ひましたツけ。それから、「なんだ其顏。陰氣な運命だナ。そんな顏をしてるよりは、死ね、死ね。……それとも病氣か。」と云ひますから、「病氣には病氣ですが、ソノ運命と云ふ病氣に取附かれたんです。」ツて答へると、「左樣《さう》か、そんな病氣なら、少し炭を持つて來て呉れ、湯を沸すから。」と又淋しく笑ひました。天野君だつて一體サウ陽氣な顏でもありませんが、この日は殊に何だか斯う非常に淋しさうでした。それがまた僕は悲しいんですネ。……で、二人で湯を沸して、飯を喰ひ乍ら、僕は今から乞食をして郷國《くに》へ歸る所だツて、何から何まで
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