せん。斯んな時は涙も出ないですよ。
『それから、其處に立つて居たのが、如何《どれ》程の時間か自分では知りませんが、氣が附いた時は雨がスッカリ止んで、何だか少し足もとが明るいのです。見ると東の空がボーッと赤くなつて居ましたつけ。夜が明けるんですネ。多分此時まで失神して居たのでせうが、よくも倒れずに立つて居たものと不思議に思ひました。線香ですか? 線香はシッカリ握つて居ました、堅く、しかし濡れて用に立たなくなつて居るのです。
『また買はうと思つたんですが、濡れてビショ/\の袂に一錢五厘しか殘つて居ないんです。一把二錢でしたが……。本を賣つた三十錢の内、國へ手紙を出さうと思つて、紙と状袋と切手を一枚買ひましたし、花は五錢でドッサリ、黒玉も、たゞもう父に死なれた口惜《くやし》まぎれに、今思へば無考《むかんがへ》な話ですけれども、十五錢程買つたのですもの。仕方がないから、それなり歸つて來て、其時は餘程障子も白んで居ましたが、復此手紙を讀みました。所が可成《なるべく》早く國に歸つて呉れといふ事が、繰り返し/\書いてあるんです。昨夜はチッとも氣がつかなかつたのですが、無論讀んだには讀んだ筈なんで、多
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