三四町も行くと、
『此處だ。獨身ぢやから遠慮はない。サア。』
「此處」は廣くもあらぬ八戸の町で、新聞配達の俊吉でさへ知らなかつた位な場處、と云はば、大抵どんな處か想像がつかう。薄汚ない横町の、晝猶暗き路次を這入つた突當り、豚小舍よりもまだ酷い二間間口の裏長屋であつた。此日、俊吉が此處から歸つたのは、夜も既に十一時を過ぎた頃であつた。その後は殆んど夜毎に此豚小舍へ通ふやうになつた。變な男は乃ち朱雲天野大助であつたのだ。『天野君は僕の友人で、兄で先生で、そして又導師です。』と俊吉は告白した。
 家出をして茲に足掛八年、故郷へ歸つたのは三年前に妹が悲慘な最後を遂げた時唯一度である。家は年々に零落して、其時は既に家屋敷の外父の所有といふものは一坪もなかつた。四分六分の殘酷な小作で、漸やく煙を立てて居たのである。老いたる母は、其儘俊吉をひき留めようと云ひ出した。然し父は一言も云はなかつた。二週間の後には再び家を出た。その時父は、『壯健《たつしや》で豪い人になつてくれ。それ迄は死なないで待つて居るぞ。石本の家を昔に還して呉れ。』といつて、五十餘年の勞苦に疲れた眼から大きい涙を流した。そして何處から
前へ 次へ
全71ページ中55ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング