また此時自分の心頭に雲の如く湧いた。
茲に少し省略の筆を用ゐる。自分の問に對して、石本君が、例の音吐朗々たるナポレオン聲を以て詳しく説明して呉れた一切は、大略次の如くであつた。
石本俊吉は今|八戸《はちのへ》(青森縣|三戸《さんのへ》郡)から來た。然し故郷はズット南の靜岡縣である。土地で中等の生活をして居る農家に生れて、兄が一人妹が一人あつた。妹は俊吉に似ぬ天使の樣な美貌を持つて居たが、其美貌祟りをなして、三年以前、十七歳の花盛の中に悲慘な最後を遂げた。公吏の職にさへあつた或る男の、野獸の如き貪婪《どんらん》が、罪なき少女の胸に九寸五分の冷鐵を突き立てたのだといふ。兄は立派な體格を備へて居たが、日清の戰役に九連城畔であへなく陣歿した。『自分だけは醜い不具者であるから未だ誰にも殺されないのです。』と俊吉は附加へた。兩親は仲々勉強で、何一つ間違つた事をした覺えもないが、どうしたものか兄の死後、格段な不幸の起つたでもないのに、家運は漸々傾いて來た。そして、俊吉が十五の春、土地の高等小學校を卒業した頃は、山も畑も他人の所有《もの》に移つて、少許《すこしばかり》の田と家屋敷が殘つて居た丈けで
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