犯をやつても、普通の巡査では手を出されぬ世の中ではないか。僕も看守だ、が、同僚と喧嘩はしても、まだ囚人の頬片《ほつぺた》に指も觸れた事がない。朝から晩まで夜叉の樣に怒鳴つて許り居る同僚もあるが、どうして此僕にそんな事が出來るものか。』
 然し此想像も亦、敢て當れりとは云ひ難い。何故となれば、現に今自分を見て居るこの男の右の眼の、親しげな、なつかしげな、心置きなき和《なごや》かな光が、別に理由を説明するでもないが、何だか、『左樣ではありませぬ』と主張して居る樣に見える。平生いかに眼識の明を誇つて居る自分でも、此咄嗟の間には十分精確な判斷を下す事は出來ぬ。が兎も角、我が石本君の極めて優秀なる風采と態度とは、決して平凡な一本路を終始並足で歩いて來た人でないといふ事丈けは、完全に表はして居るといつて可い。まだ一言の述懷も説明も聞かぬけれど、自分は斯う感じて無限の同情を此悄然たる人に捧げた。自分と石本君とは百分の一秒毎に、密接の度を強めるのだ。そして、旅順の大戰に足を折られ手を碎かれ、兩眼また明を失つた敗殘の軍人の、輝く金鵄勳章を胸に飾つて乳母車で通るのを見た時と同じ意味に於ての痛切なる敬意が、
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