アノ人が云つてました。其戸を開けると、「石本か。」ツて云ふのが癖でしたが、この時は森《しん》として何とも云はないんです。不在かナと思ひましたが、歸つて來るまで待つ積りで上り込んで見ると、不在ぢやない、居るんです。居るには居ましたが、僕の這入つたのも知らぬ風で、木像の樣に俯向いて矢張り考へ込んで居るんですナ。「何《ど》うしました?」と聲をかけると、ヒョイと首を上げて「石本か。君は運命の樣だナ。」と云ふ。何故ですかツて聞くと、「さうぢやないか、不意の侵入者だもの。」と淋しさうに笑ひましたツけ。それから、「なんだ其顏。陰氣な運命だナ。そんな顏をしてるよりは、死ね、死ね。……それとも病氣か。」と云ひますから、「病氣には病氣ですが、ソノ運命と云ふ病氣に取附かれたんです。」ツて答へると、「左樣《さう》か、そんな病氣なら、少し炭を持つて來て呉れ、湯を沸すから。」と又淋しく笑ひました。天野君だつて一體サウ陽氣な顏でもありませんが、この日は殊に何だか斯う非常に淋しさうでした。それがまた僕は悲しいんですネ。……で、二人で湯を沸して、飯を喰ひ乍ら、僕は今から乞食をして郷國《くに》へ歸る所だツて、何から何まで話したのですが、天野君は大きい涙を幾度も/\零《こぼ》して呉れました。僕はモウ父親の死んだ事も郷國の事も忘れて、コンナ人と一緒に居たいもんだと思ひました。然し天野君が云つて呉れるんです、「君も不幸な男だ、實に不幸な男だ。が然し、餘り元氣を落すな。人生の不幸を滓《かす》まで飮み干さなくては眞の人間になれるものぢやない。人生は長い暗い隧道だ、處々に都會といふ骸骨の林があるツ限《き》り。それにまぎれ込んで出路を忘れちや可けないぞ。そして、脚の下にはヒタ/\と、永劫の悲痛が流れて居る、恐らく人生の始よりも以前から流れて居るんだナ。それに行先を阻《はゞ》まれたからと云つて、其儘歸つて來ては駄目だ、暗い穴が一層暗くなる許りだ。死か然らずんば前進、唯この二つの外に路が無い。前進が戰鬪だ。戰ふには元氣が無くちや可《い》かん。だから君は餘り元氣を落しては可けないよ。少なくとも君だけは生きて居て、そして最後まで、壯烈な最後を遂げるまで、戰つて呉れ給へ。血と涙さへ涸《か》れなければ、武器も不要《いらぬ》、軍略も不要、赤裸々で堂々と戰ふのだ。この世を厭になつては其限《それつきり》だ。少なくとも君だけは厭世的な
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