なる或菓子屋に雇はれて名物の八戸煎餅を燒き、都合六圓の金を得て月々の生命を繋ぎ、又學費として、孤衾襟寒き苦學自炊の日を送つて來たのだといふ。年齡は二十二歳、身の不具で弱くて小さい所以は、母の胎内に七ヶ月しか我慢がしきれず、無理矢理に娑婆へ暴れ出した罰であらうと考へられる。
天野朱雲氏との交際は、今日で恰度半年目である。忘れもせぬ本年一月元旦、學校で四方拜の式を濟せてから、特務曹長上りの豫備少尉なる體操教師を訪問して、苦學生の口には甘露とも思はれるビールの馳走を受けた。まだ醉の醒めぬ顏を、ヒューと矢尻を研ぐ北國の正月の風に吹かせ乍ら、意氣揚々として歸つてくると、時は午後の四時頃、とある町の彼方から極めて異色ある一人物が來る。酒とお芽出度うと晴衣の正月元日に、見れば自分と同じ樣に裾から綿も出ようといふ古綿入を着て、羽織もなく帽子もなく、髮は蓬々として熊の皮を冠つた如く、然も癪にさはる程悠々たる歩調で、洋杖《ステッキ》を大きく振り※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]し乍ら、目は雪曇りのした空を見詰めて、……。初めは狂人かと思つた。近づいて見ると、五分位に延びた漆黒の鬚髯が殆んど其平たい顏の全面を埋めて、空を見詰むる目は物凄くもギラギラする巨大なる洞穴の樣だ。隨分非文明な男だと思ひ乍ら行きずりに過ぎようとすると、其男の大圈《おほわ》に振つて居る太い洋杖が、發矢《はつし》と許り俊吉の肩先を打つた。『何をするツ』と身構へると、其男も立止つて振返つた。が、極めて平氣で自分を見下すのだ。癪にさはる。先刻《さつき》も申上げた通り、これでも柔術は加納流の初段であるので、一秒の後には其非文明な男は雪の堅く凍つた路へ※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と許り倒れた。直ぐ起き上る。打つて來るかとまた身構へると、矢張平氣だ。そして破鐘の樣な聲で、怒つた風もなく、
『君は元氣のいい男だね!』
自分の滿身の力は、此一語によつて急に何處へか逃げて了つた。トタンに復、
『面白い。どうだ君、僕と一しょに來給へ。』
『君も變な男だね!』
と自分も云つて見た。然し何の效能も無かつた。變な男は悠々と先に立つて歩く。自分も默つて其後に從つた。見れば見る程、考へれば考へる程、誠に奇妙な男である。此時まで斯ういふ男は見た事も聞いた事もない。一種の好奇心と、征服された樣な心持とに導かれて、
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