ア餘りですよ。新田さん。學校の職員室へ乞食なんぞを。』
斯う叫んだのは、窓の硝子もピリ/\とする程|甲高《かんだか》い、幾億劫來聲を出した事のない毛蟲共が千萬疋もウヂャウヂャと集まつて雨乞の祈祷でもするかの樣な、何とも云へぬ厭な聲である。舌が無いかと思はれたマダム馬鈴薯の、突然噴火した第一聲の物凄さ。
小使忠太の團栗眼はクル/\/\と三※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]轉した。度を失つてまだ動かない。そこで一つ威嚇の必要がある。
『お通し申せ。』
と自分は一喝を喰はした。忠太はアタフタと出て行つた、が、早速《すぐ》と復引き返して來た。後には一人物が隨つて居る。多分既に草鞋を解《と》いて、玄關に上つて居つたのであらう。
『新田さん、貴君はそれで可いのですか。よ、新田さん、貴君一人の學校ではありませんよ。人ツ、代用のクセに何だと思つてるだらう。マア御覽なさい。アンナ奴。』
馬鈴薯が頻りにわめく。自分は振向きもしない。そして、今しも忠太の背から現はれむとする、「アンナ奴」と呼ばれたる音吐朗々のナポレオンに、渾身の注意を向けた。朱雲の手紙に「獨眼龍ダヨ」と頭註がついてあつたが、自分はたゞ單に、ヲートルローの大戰で誤つて一眼を失つたのだらう位に考へて、敢て其爲めに千古の眞骨頭ナポレオン・ボナパルトの颯爽たる威風が、一毫たりとも損ぜられたものとは信じなんだのである。或は却つて一段の秋霜烈日の嚴を増したのではないかと思つた。
忠太は體を横に開いて、ヒョコリと頭を下げる。や否や、逃ぐるが如く出て行つてしまつた。
天が下には隱家《かくれが》もなくなつて、今|現身《げんしん》の英傑は我が目前咫尺の處に突兀として立ち給うたのである。自分も立ち上つた。
此時、自分は俄かに驚いて叫ばんとした。あはれ千載萬載一遇の此月此日此時、自分の双眼が突如として物の用に立たなくなつたのではないか。これ程劇甚な不幸は、またとこの世にあるべきでない。自分は力の限り二三度|瞬《またゝ》いて見て、そして復《また》力の限り目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。然しダメである。ヲートルローの大戰に誤つて流彈の爲めに一眼を失なひ、却つて一段秋霜烈日の嚴を加へた筈のナポレオン・ボナパルトは、既に長《とこ》しなへに新田耕助の仰ぎ見るべからざるものとなつたのである。自分の大きく※[#
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