び着き易かつた。
高橋は堅く口を結んで、向ひ合つた壁側の本箱を見てゐた。其處には凹凸のある硝子戸に歪んだなりの洋燈の影が映つてささやかな藏書の脊革の金字が冷かに光つてゐた。單調な雨滴の音が耳近く響いた。
『大きい手を欲しいね、大きい手を。』突然私はさう言つた。『僕はさう思ふね。大きい手だ。社會に對しても、自分に對しても。』
「然うだ。」といふ返事を期待する心が私にあつた。然し其の期待は外れて了つた。
高橋は眉も動かさなかつた。そして前よりも一層堅く口を結んだ。私は何かしら妙な不安を感じ出した。
『大きい手か!』稍あつて彼は斯う言つた。何となく溜息を吐くやうな調子だつた。『君ならさう言ふね。――今君と僕の感じた事は、多分同じ事だよ。ね? 同じでなくても似たり寄つたりの事だよ、それを君の形式で發表すると、「大きい手」といふ言葉になるね。』
『君ならそれぢやあ何と言ふ?』
『僕か? 僕なら、――要するに何方でも可い話だがね。――僕なら然しさうは言はないね。第一、考へて見給へ。「大きい手」といふ言葉には誇張が有るよ。誇張はつまり空想だ。空想が有るよ。我々の手といふものは、我々の意志によつて大きくしたり小さくしたりすることは出來ない。如何に醫術が進んでもこれは出來さうがない。生れつきだよ。』斯う言つて、人並みはづれて小さい、其の癖ぼく/\して皮の厚さうな、指の短い手を出して見せた。
『つまり大きい手や大きい身體は先天的のものだ。露西亞人や、亞米利加人は時としてそれを有つてるね。ビスマアクも有つてゐた。然し我々日本人は有たんよ、我々が後天的にそれを欲しがつたつて、これあ畢竟空想だ。不可能だよ。』
『それで君なら何と言ふ?』私は少し焦り出した。
『僕なら、さうだね。――假に言ふとすると、まあさうだね、兎に角「大きい手」とは言はないね。――冷い鐵の玉を欲しいね、僕なら。――「玉」は拙《まづ》いな。「鐵の如く冷い心」とでも言ふか。』
『同じぢやないか? 大きい手、鐵の如き心、強い心臟……つまり意志ぢやないか?』
『同じぢやないね。大きい手は我々の後天的にもつことが出來ないけれども、鐵の如き冷い心なら有つことが出來る。――修行を積むと有つことが出來る。』
『ふむ、飽くまでも君らしい事を言ふね。』
『君らしい?』反響《こだま》のやうにさう言つて、彼はひたと私の眼を見つめた。其の眼……何といふ皮肉な眼だらうと私は思つた。
『君らしいぢやないか。』
高橋はごろりと仰向けて臥て了つた。そして兩手を頭に加《か》ひながら、
『君等は一體僕を何う見てるのかなあ。何んな男に見えるね? 僕は何んな男だかは、僕にも解らないよ。――誰か僕の批評をしとつた者は無いか?』
私は肩の重荷が輕くなつて行くやうに感じた。此處から話が變つて行くと思つたのだ。
そして、思出した儘に、我々がまだ高橋と親しくならなかつた以前、我々の彼に就いて語つたことを話して聞かせた。例の體操教師の一件だ。そればかりではない。高橋が話の途中から起き上つて、恰度他人の噂でも聞くやうに面白さうにしてゐるのに釣り込まれて、安井の言つた無駄口までつひ喋つて了つた。――後で考へるに、高橋が其の時面白さうにしてゐたのも無理は無い。彼は自分に關する批評よりも、其の批評をした一人、一人に就いて何か例の皮肉な考へ方をしてゐたに違ひない……
が、私の話が濟むと、彼は急に失望した樣な顏をして、また臥轉んで了つた。そして言ふには、
『其の批評は、然し、當つてると言へば皆當つてるが、當らないと言へば皆當らないね。』
『ははは。それはさうさ。僕等がまだ君に接近しない時の事だもの。――然し當つたとすれば何の程度まで當つてる?』
『さうさね。先づ其の細君の尻に布《し》かれるといふ奴だね。此奴は大分當つてるよ。僕は平生、平氣で尻に布かれてるよ。全くだよ。尤も餘り重いお尻でも無いがね。夫婦といふものが君、互ひに自分の權利を主張して、しよつちゆう取つ組み合ひをしたり、不愉快な思ひをしたりしてるよりは、少し位は莫迦らしくても、機嫌を取つて、賺《すか》して置く方が、差引勘定して餘つ程|得《とく》だよ。時間も得だし、經濟上でも得だよ。それ、芝居を好きな奴にや、よく役者の眞似をしたり、聲色をつかつたりして得意になつてる奴があるだらう? 僕は彼《あ》あいふ奴にや、目の玉を引繰返して妙な手附をしてるところを活動寫眞に撮《と》つておいて、何時か正氣でゐる時見せてやると可いと思ふね。さうしたら大抵の奴は二度とやらなくなるよ。夫婦喧嘩もそれだね。考へるとこれ程莫迦らしい事は無いものな。それよりや機嫌を取つておくさ。先方がにこ/\してゐれや此方だつて安んじてゐられる。……といふと大分|甘《あま》く取れるがね。然し正直のところ、僕は僕の細君を些とも愛してなんかゐないよ。これは先方もさうかも知れない。つまり生活の方便さ。それに、僕の細君は美人でも無いし、賢夫人でも無いよ。無くつても然し僕は構はん。要するに、自分の眼中に置かん者の爲に一分でも時間を潰して、剩《おま》けに不愉快な思ひをするのは下らん話だからね。』
『そらあ少し酷《ひど》い。』
『酷くても可いぢやないか? 先方がそれで滿足してる限りは。』と言ひながら起き上つた。
『尤も口ではさう言つても、其處にはまた或調和が行はれてゐるさ。』
『それはさうかも知れない。――然し兎に角我々の時代は、もう昔のやうな、一心兩體といふやうな羨ましい夫婦關係を作ることが出來ない約束になつて來てるんだよ。自然主義者は舊道徳を破壞したのは俺だといふやうな面《つら》をしてゐるが、あれは尤も本末を顛倒してる。舊道徳に裂隙《ひび》が割れたから、其の裂隙から自然主義といふ樣なものも芽を出して來たんだ、何故其の裂隙が出來たかといふと、つまり先祖の建てた家が、我々の代になつて玄關の構へだの、便所の附け處だの、色々不便なところが出來て來た樣なものだ。それを大工を入れて修繕しようと、或は又すつかり建て代へようと、それは各自の勝手だが、然しいくら建て代へたつて、家其のものの大體には何の變化も無い。形と材料とは違つても、土臺と屋根と柱と壁だけは必ず要《い》る。破壞なんて言ふのは大袈裟だよ。それから又、其の裂隙を何とかして彌縫しようと思つて、一生懸命になつてる人も有るが、あれも要するに徒勞だね。我々の文明が過去に於て經來つた徑路を全然變へて了はない以上は、漆を詰めようが砂を詰めようが、乃至は金で以て塗りつぶさうが、裂隙は矢張り裂隙だ。さうして我々は、其の裂隙を何うすれば可いかといふ事に就いちや、まだまるで盲目なんだ。彼《あ》あか、斯うかと思ふことは有る。然しまだそれに決めて了ふまでには考へが熟してゐない。また時機でもない。先《ま》あ東京の家を見給へ。今日の東京は殆どあらゆる建築の樣式を取込んでゐる、つまり彼《あ》れなんだ。何時とはなく深い谷底に來て了つて、何方へ行つて可いか、方角が解らない。そこで各自勝手に、木の下に宿を取る者もあれば、小屋掛けをする者もある。それからそれ、岩窟《いはあな》を見つける者もある。ね? 色々の事をしてゐるが、たゞ一つ解つてるのは、それが皆其の晩一晩だけの假の宿だといふことだ。明日になれば何方かへ行かなければならんといふことだ。』
『君の言ふことは實に面白いよ。――然し僕には、何うも矢つ張り唯面白いといふだけだね。第一、今の日本が君の話のやうに、さう進歩してるか知ら――若しそれが進歩といふならだね。それに何だ、それあ道徳にしろ、何にしろ、すべての事が時代と共に變つては行くさ。變つては行くけれども、其の變り方が、君の言ふやうな明瞭な變り方だとは僕は思はんね。我々が變つたと氣の附く時は、もう君、代りのものが出來てる時ぢやないのか? そして、其の新舊二つを比較して、我々が變つたと氣が附くのぢやないのか? ――例へば我々が停車場に人を送つて行くね。以前は皆汽笛がぴいと鳴ると、互ひに帽子を脱《と》つて頭を下げたもんだよ。ところが今は必ずしもさうでない。現に僕は、昨日も帽子を脱らず、頭も下げないで友人と別れて來たよ。然しそれを以て直ぐ、古い禮儀が廢れて新しい禮儀がまだ起らんとはいへん。我々は帽子を脱る代りに握手をやつたんだからな。――しかもそれが、帽子を脱ることを止めようと思つてから握手といふ別の方法に考へ及んだのか、握手をするのも可いと思つてから帽子を脱るのを止めたのか解らないぢやないか。そればかりぢやない。僕は現在時と場合によつて帽子を脱ることもあれば、握手することもある。それで些とも不便を感じない。――世の中といふものは實に微妙に推移して行くものだと僕は思ふね。常に新陳代謝してゐる。其の間に一分間だつて間隙を現すことは無いよ。君の言ふ裂隙《ひび》なんて、何處を見たつて見えないぢやないか!』
高橋は笑つた。『さう言ふ見方をしたつて見えるものか。――そして其の例は當らないよ。』
『何故《なぜ》當らん?』
『君の言ふのは時代の社會的現象のことだ。僕の言つたのは時代の精神のことだよ。』
『精神と現象と關係が無いと言ふのか?』
『現象は――例へば手だ。手には神經はあるけれども思想はない、手は何にでも觸ることが出來るけれども、頭の内部には觸ることは許されない。――』
『さうか。そんなら先《ま》あそれでも可いよ。――さうすると今の細君問題は何うなるんだ?』
『何うと言つて、別に何うもならんさ。』
『矢つ張りその何か、甘くない意味に於て尻に布かれるといふことになるんか?』
『つまりさうさ。夫婦關係の問題も今言つた一般道徳と同じ運命になつて來てるんだ。個人意識の勃發は我々の家庭組織を不安にしてる。――不安にしてるが、然し、家庭其のものを全然破壞するほど危險なんぢやないぜ。之は僕は確實に主張するよ。――これだけは君も認めるね? 今は昔と違つて、未亡人の再婚を誰も咎めるものはないからな。それから何んだ、何方か一人が夫婦關係を繼續する意志を失つた際には、我々はそれを引止める何の理由も有たん。――之は君の言葉を一寸拜借したんだぜ。此間佐伯が細君に逃げられた時、君はさう言つたからな。――尤もこれらは誰にも解る皮相の事さ。然し兎も角、我々の夫婦といふものに就いての古い觀念が現状と調和を失つてるのは事實だ。今もさうだがこれからは益々さうなる。結婚といふものゝ條件に或修正を加へるか、乃至は別に色々の但書を附加へなくちやあ、何時まで經つてももう一度破れた平和が還つて來ない。考へて見給へ。今に女が、私共が夫の飯を食ふのはハウスキイピングの勞力に對する當然の報酬ですなんて言ふやうになつて見給へ。育兒は社會全體の責任で、親の責任ぢや無いとか、何とか、まだ、まだ色々言はせると言ひさうな事が有るよ。我々男は、口では婦人の覺醒とか、何とか言ふけれども、誰だつてそんなに成ることを希望してゐやせんよ。否でも、應でも喧嘩だね。だから早く何とかしなくちやならんのだが、困ることには我々にはまだ、何《ど》の條項を何う修正すれば可いか解らん。何んな但書を何處に附け加へれば可いか解らん。色々考へが有るけれども、其の考と實際とはまだ却々《なか/\》距離が有る。其處で今日のやうな時代では、我々男たる者は、其の破綻に對して我々の拂はねばならぬ犧牲を最も少くする方法を講ずるのが、一番得策になつて來るんだ。さうして其の方法は二つある。』
『一つは尻に布かれる事だ。』
『さうさ。も一つは獨身で、宿屋住ひをして推通すことだ。一得、一失は有るが、要するに此の二つの外に無いね。――ところが此處に都合の可い事が一つ有るんだよ。ははは。それは外では無いが、日本の女の最大多數は、まだ明かに自分等の状態を意識してはゐないんだ。何れだけ其の爲に我々が助かるか知れないね。布かれて見ても案外女のお尻の重くないのは、全く其のお蔭だよ。比較して見たんぢやないがね。』
私は吹き出して了つた。『君は實に手數のかゝる男だね。細君と妥協するにまでそんな手數がかゝるんか?』
『手數のかゝる筈さ。尻に布かれる
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