見送りに來なかつたのは、前の日から或事件の爲に鎌倉へ出張してゐる劍持だけであつた。
五
『龜山君、君は碁はやらないのか?』
高橋は或日編輯局で私にさう言つた。松永に別れて、四、五日經つた頃だつた。
『碁は些《ちつ》とも知らん。君はやるか?』
『僕も知らん。そんなら五目竝べをやらうか? 五目竝べなら知つとるだらう?』
『やらうか。』
二人は卓子の上に放棄《うつちや》らかしてあつた碁盤を引き寄せて、たわいの無い遊戯を始めた。恰度我々外勤の者は手が透いて、編輯机の上だけが急がしい締切時間間際だつた。
側には逢坂がゐて、うるさく我々の石を評した。二人は態《わざ》と逢坂の指圖の反對にばかり石を打つた。勝負は三、四囘あつた。高橋は逢坂に、
『どうだ、僕等の五目竝べは商賣離れがしてゐて却つて面白いだらう?』と調戯《からか》つた。
『何をしとるんぢや、君等は?』言ひながら劍持が來て盤の上を覗いた。『ほう、何といふこつちや! 髯を生やして子供の眞似をしとるんか?』
『忙中閑ありとは此の事よ。君のやうに賭碁をやるやうに墮落しちや、かういふ趣味は解らんだらう?』と私は笑つた。
『生意氣
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