もいふべき鋭い猜疑心を、意外な邊に働かしてゐるやうな癖があつた。私は時々それを不思議に思つてゐた。
それから間もなくのことであつた。或晩安井が一人私の家へ遊びに來た。
『君は今日休みだつたんか? さうと知らずに僕は社で待つてゐて、つまらん待ぼけを喰つちやつた。』坐るや否や彼はさう言つた。
『何か用か?』
『いゝや。ただ逢ひたかつたんだ。劍持は田舍版の編輯から頼まれて水戸へ行つたしな――我が黨の士が居らんと寂寥たるもんよ。それに何だ、高橋の奴今日も休みやがつたよ。僕は高橋に大いに用が有るんだ。來たら冷評《ひやか》してやらうと思うとつたら、遂々《とう/\》來なかつた。』
『さうか。それぢやもう三日休んだね。――一體何の用が起つたんだらう、用なんか有りさうな柄ぢやないが!』
『用なもんか。社の方には病氣屆を出しとるよ。』
『假病か?』
『でなくつてさ。彼の身體に病氣は不調和ぢやないか?』
『高橋君の假病は初めてだね。――休んだのが初めてかも知れない。』
『感心に休まん男だね。』
『矢つ張り何か用だらう?』
『それがよ。』安井は勢ひ込んで、そして如何にも面白さうに笑つた。『僕は昨日高橋に逢つたんだよ。』
『何處で?』
『淺草で。』
『淺草で?』
『驚いたらう? 僕も初めは驚いたよ。何しろ意外な處で見附けたんだものな。』
『淺草の何處にゐたんだ。』
『まあ聞き給へ。昨日僕は○○さんから活動寫眞の弊害調査を命ぜられたんでね。早速昨夜淺草へ行つて見たんさ。可いかね? さうして、二、三軒歩いてから、それ、キネオラマをやる三友館てのが有るだらう? 彼《あ》れへ入つたら、先生ぽかんとして活動寫眞を見てゐるんぢやないか。』
『ははは。活動寫眞をか! そして何と言つた?』
『何とも言はんさ。先《ま》あ可いかね。僕が入つて行つた時は何だか長い芝居物をやつてゐて、眞暗なんだよ。それが濟んでぱつと明るくなつた時、誰か知つてる者はゐないかと思つて見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]してゐると、ずつと前の腰掛に、絽の紋附を着てパナマを冠つた男がゐるんだ。そして其奴が帽子を脱つて手巾で額を拭いた時、おや、高橋君に肖《に》てるなと僕は思つたね。頭は角刈りでさ。さうしてると、其奴がひよいと後を向いたんだ。――何うだい。矢つ張りそれが高橋よ。』
『へえ! 子供でも連れて行つたんか?』
『僕もさう思つたね。さうでなければ田舍から親類でも來て、それで社を休んで方々案内してるんだらうと思つたね。』
『さうぢやないのか?』言ひながら私は、安井の言ふ事が何となく信じられないやうな氣持だつた。
『一人さ。』安井は續けた。『何うも僕も不思議だと思つたね。さうして次の寫眞の間に、横手の、便所へ行く方のずつと前へ行つてゐて、こんだよく見屆けてやらうと思つて明るくなるのを待つてゐると、矢張|擬《まが》ひなしの高橋ぢやないか。しかも頗る生眞面目な顏をして、卷煙草を出してすぱすぱ吸ひながら、花聟みたいに濟まあしてゐるんぢやないか! 僕は危く吹き出しちやつたね。』
『驚いたね。高橋君が活動寫眞を見るたあ思はなかつた。――それで何か、君は言葉を懸けたんか?』
『懸けようと思つたさ。然し何しろ四間も五間も、離れてるしね。中へ入つて行かうたつて、彼《あ》の通りぎつしりだから入《はひ》れやしないんだ。汗はだく/\流れるしね。よく彼んな處の中央《まんなか》へ入つてるもんだと思つたよ。』
『それぢや高橋君は、君に見られたのを知らずにゐるんか?』
『知らんさ。彼れ是れ一時間ばかり經つて入代りになつた時、先生も立つて歸るやうな樣子だつたから、僕も大急ぎで外へ出たんだが、出る時それでも二三分は暇を取つたよ。だから辛《やつ》と外へ出て來て探したけれども、遂々《とう/\》行方知れずさ。』
『隨分振つてるなあ! 一體何の積りで、活動寫眞なんか見に行つたんだらう?』
『解らんね、それが。僕は默つて、寫眞よりも高橋君の方ばかり見てゐたんだが、其の内に段々目が暗くなるのに慣れて來てね。面白かつたよ。惡戯小僧の寫眞なんか出ると、先生大口開いて笑ふんぢやないか? 周圍の愚夫愚婦と一緒にね。』
話してるところへ、玄關に人の訪ねて來たけはひがした。家の者の出て挨拶する聲もした。
『ああ、さうですか。安井君が。』さういふ言葉が明瞭《はつきり》と聞えた。
『高橋だ。』
『高橋だ。』
安井と私は同時にさう言つて目を見合はした。そして妙に笑つた。
『やあ。』言ひながら高橋は案内よりも先に入つて來た。燈火の加減でか、平生《いつも》より少し脊が低く見えた。そして、見慣れてゐる袴を穿いてゐない所爲《せゐ》か、何となく見すぼらしくも有つた。
『やあ。』私も言つた。『噂をすれば影だ。よくやつて來たね。』
『僕の噂をしてゐたのか?』さう
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