をいふなよ。知らんなら知らんと言ふもんぢや。さうしたら僕が本當の碁を教へてやる。』
『僕に教へてくれ給へ。』高橋が言つた。
『僕は以前《まへ》から稽古したいと思つてるんだが、餘り上手な人に頼むのは氣の毒でね。――』
『何? 僕を下手だと君は心得をるんか? そらあ失敬ぢやが君の眼ん玉が轉覆《ひつくり》かへつちよる。麒麟未だ老いず、焉んぞ駑馬視せらるゝ理由あらんやぢや、はは。』
『初めから駑馬なら何うだ?』私が言つた。
『僕の首が短いといふんか? それは詭辯ぢや。凡そ碁といふものは、初めは誰でも笊《ざる》に決つとる。笊を脱いで而して麒麟は麒麟となり、駑馬は駑馬となつて再び笊を被る。――』
『中には其の二者を兼ねた奴がある。』私は興に乘つて無駄口を續けた。
『我々みたいに碁を知らん者に向つては麒麟で、苟くも烏鷺の趣味を解した者の前には駑馬となる奴だ。つまり時宜《じぎ》に隨つて首を伸縮させる奴よ。見給へ。君はさうしてると、胴の中へ頭が嵌り込んだやうに見えるが、二重襟《だぶるからあ》をかけた時は些とは可い。少くとも、頭と胴の間に多少の距離のあることを誰にでも認めさせる程度に首が伸びる。』
『愚《ぐ》な事を言ふなあ。烏鷺の趣味を解せん者は、そんな事を言うて喜ぶんぢやから全く始末に了へん。』
『劍持君。』と高橋は横合から言つた。『君本當に僕に碁を教へてくれんか? 教へるなら本當に習ふよ。』
 さう言ふ顏は強《あなが》ち戯談ばかりとも見えなかつた。
『本當か、それは?』劍持は一寸不思議さうに對手の顏を見て、『……ああ、何か? 君は松永君が郷里へ歸つたんで、何かまた別の消閑法《ひまつぶし》を考へ出さにやならんのか?』
 私は冷《ひや》りとした。
『戯談ぢやない。肺結核と碁と結び附けられてたまるもんか。』さう言つて高橋は苦笑ひをした。
 幸ひと其の時、劍持は電話口へ呼び出された。高橋は給仕に石を片附ける事を云ひ附けて、そして卷煙草に火を點けて、何處へともなく編輯局を出て行つた。
 其の頃から彼の樣子はまた少し變つた。私は彼の心に何か知ら空隙《すき》の出來たことを感じた。そして其の空隙を、彼が我々によつて滿たさうとしてはゐないことをも感じてゐた。
 松永の病氣以前のやうに、時々我々の家へ來ることは無くなつた。社の仕事にも餘り氣乘りのしないやうな風だつた。人に目立たぬ程度に於て、遲く出て來て早く歸つた。急がしい用事を家に控へてゐて、一寸のがれに出歩いてゐる人のやうに私には見えた。
『些《ち》とやつて來ないか? 高橋さんは何うなすつたらうつて僕の母も言つてる。』などと言ふと、
『ああ、君ん處にも隨分御無沙汰しちやつたねえ。宜敷言つてくれ給へ。今日は可かんが何れ其の内に行く。』さう言ひながら矢張來るでもなかつた。偶《たま》にやつて來ても、心の落着かぬ時に誰もするやうに、たわいの無い世間話を態と面白さうに喋り立てて、一時間とは尻を据ゑずに歸つて行つた。
『おい、龜山君、僕は此の間非常な珍聞を聞いて來たぞ。』或日劍持がさう言つた。二人の乘つた電車が京橋の上で停電に會つて、いくら待つても動かぬところから、切符を棄てて直ぐ其處のビイヤホールで一杯やつた時の事だつた。
『何だい、珍聞た?』編輯局の笑ひ物になつてゐるあるか無しかの髭をナフキンで拭きながら私は聞いた。
『珍聞ぢや。はは。然も隱れたる珍聞ぢや。』
『持たせるない。』
 二人が其處を出て、今しも動き出したばかりの電車の、幾臺も、幾臺も空いた車の續くのを見ながら南傳馬町まで歩く間に、劍持は氣が咎める樣子で囁くやうに私に語つた。――高橋の細君が美人な事。然も妙な癖のある美人な事。彼が嘗て牛込の奧に室借《まがり》をしてゐた頃、其の細君と隣室にゐた學生との間に變な樣子が有つて、其の爲に引越して了つた事――それが其の話の内容だつた。
 何處から聞き込んだものか、學生の名前も、其の學生が現在若い文士の一人に數へられてゐる事も、又其の頃高橋の細君には既に子供の有つた事も、劍持はよく詳しく知つてゐた。
『何時聞いた?』電車に乘つてから私は言つた。
『一月ばかり前ぢや。』
『もう外の連中も知つてるんか?』
『莫迦言へ。僕をそんな男と思ふか?……社で知つとるのは僕一人ぢや。君もこんな事人に言つちや可かんぞ。安井なんか正直な男ぢやが、おつちよこちよいで可かん。』
 私は誓つた。劍持は實際人の祕密を喋り散らして喜ぶやうな男では無かつた。無遠慮で、口が惡くて、人好きはしなかつたが、交際《つきあ》つて見ると堅固な道徳的感情を有つてゐる事が誰にも解つた。彼は自分の職務に對する強い義務心と共に、常に弱者の味方たる性情を抱いてゐた。我々が不時の出費などに苦む時の最も頼母しい相談對手は彼だつた。ただ彼には、時として、善く言へば新聞記者的とで
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