言つて縁側に近い處に坐つた。『病人が突然やつて來て、喫驚《びつくり》したらう? 夜になつても矢つ張り暑いね。』
『君の病氣はちやんと診察してるよ。』それは安井が言つた。
『當り前さ。僕が本當の病人になるのは、日本中の人間が皆、梅毒と結核の爲に死に絶えて了つてからの事だ。』
『それなら何故社を休んだ?』私は皮肉な笑ひ方をして聞いた。
『うむ。……少し用が有つてね。』
『其の用も知つてるぞ。』
『何の用だい?』
『自分の用を人に聞く奴があるか?』
『知つてると云ふからさ。』
『君は昨夜《ゆうべ》何處へ行つた?』
『昨夜《ゆうべ》か? 昨夜は方々歩いた。何故?』
『安井君、彼《あ》れは何時頃だつたい?』私は安井の顏を見た。
安井と態と眞面目な顏をしながら、『さうさのう、八時から九時までの間頃だ。』
『八時から九時……』高橋は鹿爪らしく小首を傾《かし》げて、
『ああ、其の頃なら僕は淺草で活動寫眞を見てゐたよ。』
二人は吹きだして了つた。
高橋は等分に二人の顏を見て、『何が可笑しいんだい? 君等も昨夜行つてたのか?』
『何うだ、天網恢々疎にして洩さずだらう?』安井は言つた。
『ふむ、それが可笑しいのか? さうか。君等も行つてたのか? 龜山君も?』
『僕は行かんよ。安井君が行つたんだよ。』
『道理で?……安井も大分近頃話せるやうになつたなあ。』さう言つて無遠慮に安井の顏を見た。
安井は對手の平氣なのに少し照れ[#「照れ」に傍点]た樣子で、『戯談ぢや無い。僕はまだ君のやうに、彼處へ行つて大口開いて笑へやしないよ。』
『高橋君。』私は言つた。『君こそ社を休んで活動寫眞へ行くなんて、近頃大分話せるやうになつたぢやないか?』
高橋は私の顏に目を移して、その子供のやうな聲を立てゝ笑つた。
『そんな風に書くから社の新聞は賣れるんだよ。君等は實に奇拔な觀察をするなあ。』
『だつてさうぢやないか?』私も笑つた。
『そんなら活動寫眞と、君が社を休んだ理由と何れだけ關係があるんだ?』
『莫迦な事を言ふなあ! 社を休んだのは少し用があつて休んだんだよ。實は四、五日休んで一つ爲事《しごと》しようかと思つたんだよ。それが出來なかつたから、ぶら/\夕方から出懸けて行つたまでさ。』
『何んな爲事だい?』
『爲事か? なあに、何うせ下らんこつたがね。』
『ははは、活動寫眞よりもか?』
一寸間を置い
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