て、高橋は稍眞面目な顏になつた。『君等は僕が活動寫眞を見に行つたつて先刻《さつき》から笑ふが、そんなに可笑しく思はれるかね? 安井君は何うせ新聞の種でも探しに行つたんだらうが、先《ま》あ一度、そんな目的なしに彼處へ入つて見給へ。好い氣持だよ。彼處には何百人といふ人間が、彼の通りぎつしり詰まつてるが、奴等――と言つちや失敬だな――彼の人達には第一批評といふものが無い。損得《そんとく》の打算も無い。各自急がしい用をもつた人達にや違ひないが、彼處へ來るとすつかりそれを忘れて、ただもう安い値を拂つた樂しみを思ふさま味はうとしてる。尤も中には、女の手を握らうと思ふ奴だの、掏摸《すり》だの、それから刑事だのも入り込んでるだらうが、それは何十分の一だ。』
『僕は其奴等を見に行つたんさ。』と安井が口を入れた。
『さうだらう、僕もさう思つてゐた。新聞記者といふ者はそれだから厭だよ。輾《ころ》んでも只は起きない工夫ばかりしてる。』
私は促した。『それで活動寫眞の功徳は何處邊《どこいら》に在るんか?』
『つまり批評の無い場處だといふところにあるさ。――此の間まで内の新聞に、方々の實業家の避暑に就ての意見が出てゐたね。彼れを讀むと、十人の八人までは避暑なんか爲なくても可いやうに言つてる。ああ言つてるのはつまり、彼等頭取とか、重役とか、社長とかいふ地位にゐるものは、周圍の批評に比較的無關心で有り得る境遇にゐるからなんだよ。山へ行きたいの、海へ行きたいのといふのは、畢竟僕の所謂批評の無い場所へ行きたいといふ事なんだからね。ところが僕等のやうな一般人はさうは行かん。先《ま》あ誰にでも可いから、其の人の現在に於ける必要と希望とを滿たして、それでもまだ餘る位の金をくれて見給へ。屹度海か、山へ行くね。十人に九人までは行くね。人がよく夏休みになると、借金してまで郷里へ歸るのは、一つは矢張りそれだよ。さうして復東京へ戻つて來ると、屹度、「故郷は遠くから想ふべき處で、歸るべき處ぢやない。」といふのも、矢張りそれだよ。故郷だつて、山や河ばかりぢやない。人間がゐる。然も自分を知つてる人間ばかりゐる。二日や、三日は可いが、少し長くなると、其處にもまた批評の有る事を發見して厭になるんだ。』
高橋は入つて來た時から放さなかつた扇を疊んで[#「疊んで」は底本では「疊んだ」]、ごろりと横になつた。そして續けた。
『僕
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