臥轉んでゐる高橋が、何がなしに殘酷な男のやうに思はれた。
さうした高橋に對する反感を起す機會が、それから一週間ばかり經つてまた有つた。それは松永が退社の決心をして、高橋に連れられて社に來た時である。私は或る殺人事件の探訪に出かけるところで、玄關まで出て私の車夫を呼んでゐると、恰度二人の俥が轅を下した。松永はなつかしさうな眼をしながら、高橋の手を借りて俥から下りた。そして私と向ひ合つた。私はこの病人の不時の出社を訝《いぶか》るよりも、先づ其の屋外の光線で見た衰弱の甚だしさに驚いた。朝に烈しい雷鳴のあつた日で、空はよく霽れてゐたが、何處か爽かな凉しさがまだ空氣の中に殘つてゐた。
私は手短かに松永の話を聞いた、聲に力は無かつたが、顏ほど陰氣でもなく、却つて怡々《いそ/\》してゐるやうなところもあつた。病氣の爲に半分生命を喰はれてゐる人とは思はれなかつた。
『そんなにしなくたつて可ささうなもんだがなあ。秋になつて凉しくなれば直ぐ恢復するさ。』
私はそんな風に言つて見た。
『病氣が病氣ですからねえ。』
『醫者も秋になつたらつて言ふんだ。』と高橋は言つた。
『だから松永君も僕も、轉地は先《ま》あ病氣の爲に必要な事として、茅ヶ崎あたりが可いだらうつて言ふんだが、御母さんが聞かん。松永君も何だよ、先《ま》あ夏の間だけ郷里で暮らす積りで歸るんだよ。』
『それにしても、退社までしなくつたつて可いぢやないか?』
『それは此の病人の主張だから、爲方が無いんだ。今出て來る時まで僕は止めたんだけれど、頑として聞かん。』
『ははは。』と松永は淋しい笑ひ方をした。
それから二、三分の間話して私は俥に乘つた。そして七八間も挽き出した頃に、振り返つて見たが、二人の姿はもう玄關に見えなかつた。その時私は、何といふこともなく、松永の彼《あ》の衰へ方は病氣の所爲《せゐ》ではなくて、高橋の殘酷な親切の結果ではあるまいかといふやうな氣がした。醫學者が或る病毒の經過を兎のやうな穩しい動物によつて試驗するやうに、松永も亦高橋の爲に或る試驗に供されてゐたのではあるまいかと……。
後に聞いたが、編輯長は松永の退社に就いて、最初|却々《なか/\》聞き入れなかつたさうだ。半年なり、一年なり緩《ゆつく》り保養してゐても、社の方では別に苦しく思はない、さう言つたさうだ。松永は大分それに動かされたらしかつた。然し遂に退
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