だね。』
『それやさうだ。』
『ところが氣が附いて見給へ。こんな苦しいことは無いだらう? 一方では常に氣を休めずに周圍の事に注意しながら、同時に常にそれによつて動く自分の感情を抑へつけてゐなくちやならんことになるんだ。だから一旦さういふヂレンマに陷つた者が、それから脱れよう、脱れようとするのは、もう君、議論の範圍ぢやないよ。必至だよ。出來る、出來ないは問題ぢや無いんだ。時代の病氣だから何う、斯うと言ふのは、畢竟まだ其處まで行かん人の言ふこつたよ。或は其處まで行く必要の無い人かね。』
「敗けたな!」と私は思つた。そして、『いや、僕も實は其處ん處まで行つてゐないよ。――然し可いぢやないか? 僕は可いと思ふな。感情が動いたら動いたで、大いに動かすさ。誰に遠慮も要《い》らん。――要するに僕は、自由に呼吸してゐさへすれば男子の本領は盡きると思ふね。』
『君の面目が躍如としてる。君は羨むべき男さ。』さう言つて高橋は無遠慮に私の顏を眺めた。まるで私を弟扱ひにでもしてるやうな眼だつた。
『失敬な事を言ふな。』言ひながら私は苦笑ひをした。
『僕はまだこんな話をしたことは無いがねえ。』とやがて又彼は言ひ出した。『僕はこれでしよつちゆう氣の變る男だよ。僕みたいに氣の變り易い男はまあ無いね。しよつちゆう變る。』
『誰だつてそれはさうぢやないか?』
『さうぢやないね。――それにね、僕はこれでも自惚《うぬぼ》れを起すことがあるんだぜ、自惚れを。滑稽さ。時々斯う自分を非凡な男に思つて爲樣が無いんだ。ははは。尤も二日か、三日だがね。長くても一週間位だがね。さうして其の後には反動が來る。――あんな厭な氣持はないね。何うして此の身體《からだ》を苛《さいな》んでやらうかと思ふね。』
高橋は拙い物でも口に入れたやうな顏をした。
『ふむ。』と私は考へる振りをした。然しいくら考へたとて、私の頭腦《あたま》は彼の言葉の味を味ふことが出來なかつた。「何して斯う自分を虐めてるんだらう? たゞこんなことを言つて見るのか知ら?」私はさう心の中で呟いた。
「意志だ。意志を求めてゐるんだ。然し意志の弱い男ぢやないがなあ。」やがて又私はさう思つた。すると私の心は、恰度其の頃内職に飜譯しかけてゐた或本の上に辷つて行つた。其の本の著者はロオズヴェルトだつた。意志といふ言葉とロオズヴェルトといふ名とは、不思議にも私の頭腦の中で結
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