一利己主義者と友人との対話
石川啄木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)披露《ひろう》をして

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五|度《たび》も

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B おい、おれは今度また引越しをしたぜ。
A そうか。君は来るたんび引越しの披露《ひろう》をして行くね。
B それは僕には引越し位の外に何もわざわざ披露するような事件が無いからだ。
A 葉書でも済むよ。
B しかし今度のは葉書では済まん。
A どうしたんだ。何日《いつ》かの話の下宿の娘から縁談でも申込まれて逃げ出したのか。
B 莫迦《ばか》なことを言え。女の事なんか近頃もうちっとも僕の目にうつらなくなった。女より食物《くいもの》だね。好きな物を食ってさえいれあ僕には不平はない。
A 殊勝な事を言う。それでは今度の下宿はうまい物を食わせるのか。
B 三度三度うまい物ばかり食わせる下宿が何処《どこ》にあるもんか。
A 安下宿ばかりころがり歩いた癖に。
B 皮肉るない。今度のは下宿じゃないんだよ。僕はもう下宿生活には飽き飽きしちゃった。
A よく自分に飽きないね。
B 自分にも飽きたさ。飽きたから今度の新生活を始めたんだ。室《へや》だけ借りて置いて、飯は三度とも外へ出て食うことにしたんだよ。
A 君のやりそうなこったね。
B そうかね。僕はまた君のやりそうなこったと思っていた。
A 何故《なぜ》。
B 何故ってそうじゃないか。第一こんな自由な生活はないね。居処《いどころ》って奴は案外人間を束縛するもんだ。何処かへ出ていても、飯時になれあ直ぐ家のことを考える。あれだけでも僕みたいな者にゃ一種の重荷だよ。それよりは何処でも構わず腹の空《す》いた時に飛び込んで、自分の好きな物を食った方が可《い》じゃないか。(間)何でも好きなものが食えるんだからなあ。初めの間《うち》は腹のへって来るのが楽みで、一日に五回ずつ食ってやった。出掛けて行って食って来て、煙草でも喫《の》んでるとまた直ぐ食いたくなるんだ。
A 飯の事をそう言えや眠る場所だってそうじゃないか。毎晩毎晩同じ夜具を着て寝るってのも余り有難いことじゃないね。
B それはそうさ。しかしそれは仕方がない。身体《からだ》一つならどうでも可いが、机もあるし本もある。あんな荷物をどっさり持って、毎日毎日引越して歩かなくちゃならないとなったら、それこそ苦痛じゃないか。
A 飯のたんびに外に出なくちゃならないというのと同じだ。
B 飯を食いに行くには荷物はない。身体だけで済むよ。食いたいなあと思った時、ひょいと立って帽子を冠《かぶ》って出掛けるだけだ。財布さえ忘れなけや可い。ひと足ひと足うまい物に近づいて行くって気持は実に可いね。
A ひと足ひと足新しい眠りに近づいて行く気持はどうだね。ああ眠くなったと思った時、てくてく寝床を探しに出かけるんだ。昨夜《ゆうべ》は隣の室で女の泣くのを聞きながら眠ったっけが、今夜は何を聞いて眠るんだろうと思いながら行くんだ。初めての宿屋じゃ此方《こっち》の誰だかをちっとも知らない。知った者の一人もいない家の、行燈《あんどん》か何かついた奥まった室に、やわらかな夜具の中に緩《ゆっ》くり身体を延ばして安らかな眠りを待ってる気持はどうだね。
B それあ可いさ。君もなかなか話せる。
A 可いだろう。毎晩毎晩そうして新しい寝床で新しい夢を結ぶんだ。(間)本も机も棄てっちまうさ。何もいらない。本を読んだってどうもならんじゃないか。
B ますます話せる。しかしそれあ話だけだ。初めのうちはそれで可いかも知れないが、しまいにはきっとおっくうになる。やっぱり何処かに落付いてしまうよ。
A 飯を食いに出かけるのだってそうだよ。見給え、二日|経《た》つと君はまた何処かの下宿にころがり込むから。
B ふむ。おれは細君を持つまでは今の通りやるよ。きっとやってみせるよ。
A 細君を持つまでか。可哀想に。(間)しかし羨《うらや》ましいね君の今のやり方は、実はずっと前からのおれの理想だよ。もう三年からになる。
B そうだろう。おれはどうも初め思いたった時、君のやりそうなこったと思った。
A 今でもやりたいと思ってる。たった一月でも可い。
B どうだ、おれん処へ来て一緒にやらないか。可いぜ。そして飽きたら以前《もと》に帰るさ。
A しかし厭《いや》だね。
B 何故。おれと一緒が厭なら一人でやっても可いじゃないか。
A 一緒でも一緒でなくても同じことだ。君は今それを始めたばかりで大いに満足してるね。僕もそうに違いない。やっぱり初めのうちは日に五|度《たび》も食事
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