施与《ほどこし》をするごとき心に

ある朝のかなしき夢のさめぎはに
鼻に入《い》り来《き》し
味噌《みそ》を煮《に》る香《か》よ

こつこつと空地《あきち》に石をきざむ音
耳につき来《き》ぬ
家《いへ》に入《い》るまで

何がなしに
頭《あたま》のなかに崖《がけ》ありて
日毎《ひごと》に土のくづるるごとし

遠方《ゑんぱう》に電話の鈴《りん》の鳴るごとく
今日《けふ》も耳鳴る
かなしき日かな

垢《あか》じみし袷《あはせ》の襟《えり》よ
かなしくも
ふるさとの胡桃《くるみ》焼《や》くるにほひす

死にたくてならぬ時あり
はばかりに人目を避《さ》けて
怖《こは》き顔する

一隊の兵を見送りて
かなしかり
何《なに》ぞ彼等のうれひ無《な》げなる

邦人《くにびと》の顔たへがたく卑《いや》しげに
目にうつる日なり
家にこもらむ

この次の休日《やすみ》に一日寝てみむと
思ひすごしぬ
三年《みとせ》このかた

或る時のわれのこころを
焼きたての
麺麭《ぱん》に似たりと思ひけるかな

たんたらたらたんたらたらと
雨滴《あまだれ》が
痛むあたまにひびくかなしさ

ある日のこと
室《へや》の障子《しやうじ》をはりかへぬ
その日はそれにて心なごみき

かうしては居《を》られずと思ひ
立ちにしが
戸外《おもて》に馬の嘶《いなな》きしまで

気ぬけして廊下《らうか》に立ちぬ
あららかに扉《ドア》を推《お》せしに
すぐ開《あ》きしかば

ぢっとして
黒はた赤のインク吸ひ
堅くかわける海綿《かいめん》を見る

誰《たれ》が見ても
われをなつかしくなるごとき
長き手紙を書きたき夕《ゆふべ》

うすみどり
飲めば身体《からだ》が水のごと透《す》きとほるてふ
薬はなきか

いつも睨《にら》むラムプに飽《あ》きて
三日《みか》ばかり
蝋燭《らふそく》の火にしたしめるかな

人間のつかはぬ言葉
ひょっとして
われのみ知れるごとく思ふ日

あたらしき心もとめて
名も知らぬ
街など今日《けふ》もさまよひて来《き》ぬ

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来《き》て
妻《つま》としたしむ

何《なに》すれば
此処《ここ》に我ありや
時にかく打驚《うちおどろ》きて室《へや》を眺むる

人ありて電車のなかに唾《つば》を吐《は》く
それにも
心いたまむとしき

夜明けまであそびてくらす場所が欲《ほ》し
家《いへ》をおもへば
こころ冷《つめ》たし

人みなが家《いへ》を持つてふかなしみよ
墓に入《い》るごとく
かへりて眠る

何かひとつ不思議を示し
人みなのおどろくひまに
消えむと思ふ

人といふ人のこころに
一人づつ囚人《しうじん》がゐて
うめくかなしさ

叱《しか》られて
わっと泣き出《だ》す子供心
その心にもなりてみたきかな

盗むてふことさへ悪《あ》しと思ひえぬ
心はかなし
かくれ家《が》もなし

放《はな》たれし女のごときかなしみを
よわき男の
感《かん》ずる日なり

庭石《にはいし》に
はたと時計をなげうてる
昔のわれの怒《いか》りいとしも

顔あかめ怒《いか》りしことが
あくる日は
さほどにもなきをさびしがるかな

いらだてる心よ汝《なれ》はかなしかり
いざいざ
すこし※[#「呎」の「尺」に代えて「去」、第3水準1−14−91]呻《あくび》などせむ

女あり
わがいひつけに背《そむ》かじと心を砕《くだ》く
見ればかなしも

ふがひなき
わが日《ひ》の本《もと》の女等《をんなら》を
秋雨《あきさめ》の夜《よ》にののしりしかな

男とうまれ男と交《まじ》り
負けてをり
かるがゆゑにや秋が身に沁《し》む

わが抱《いだ》く思想はすべて
金《かね》なきに因《いん》するごとし
秋の風吹く

くだらない小説を書きてよろこべる
男|憐《あは》れなり
初秋《はつあき》の風

秋の風
今日《けふ》よりは彼《か》のふやけたる男に
口を利《き》かじと思ふ

はても見えぬ
真直《ますぐ》の街をあゆむごとき
こころを今日は持ちえたるかな

何事も思ふことなく
いそがしく
暮らせし一日《ひとひ》を忘れじと思ふ

何事も金金《かねかね》とわらひ
すこし経《へ》て
またも俄《には》かに不平つのり来《く》

誰《た》そ我《われ》に
ピストルにても撃《う》てよかし
伊藤のごとく死にて見せなむ

やとばかり
桂《かつら》首相に手とられし夢みて覚《さ》めぬ
秋の夜の二時

 煙

   一

病《やまひ》のごと
思郷《しきやう》のこころ湧《わ》く日なり
目にあをぞらの煙《けむり》かなしも

己《おの》が名をほのかに呼びて
涙せし
十四《じふし》の春にかへる術《すべ》なし

青空に消えゆく煙
さびしくも消えゆく煙
われにし似るか

かの旅の汽車の車掌《しやしやう》が
ゆくりなくも
我が中学の友なりしかな

ほとばしる喞筒《ポンプ》の水の
心地《ここち》よさよ
しばしは若きこころもて見る

師も友も知らで責《せ》めにき
謎《なぞ》に似る
わが学業のおこたりの因《もと》

教室の窓より遁《に》げて
ただ一人
かの城址《しろあと》に寝に行きしかな

不来方《こずかた》のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五《じふご》の心

かなしみといはばいふべき
物の味《あぢ》
我の嘗《な》めしはあまりに早かり

晴れし空|仰《あふ》げばいつも
口笛を吹きたくなりて
吹きてあそびき

夜寝ても口笛吹きぬ
口笛は
十五の我の歌にしありけり

よく叱《しか》る師ありき
髯《ひげ》の似たるより山羊《やぎ》と名づけて
口真似もしき

われと共《とも》に
小鳥に石を投げて遊ぶ
後備大尉《こうびたいゐ》の子もありしかな

城址《しろあと》の
石に腰掛《こしか》け
禁制の木《こ》の実《み》をひとり味《あぢは》ひしこと

その後《のち》に我を捨てし友も
あの頃は共に書読《ふみよ》み
ともに遊びき

学校の図書庫《としよぐら》の裏の秋の草
黄《き》なる花咲きし
今も名知らず

花散れば
先《ま》づ人さきに白の服《ふく》着《き》て家《いへ》出《い》づる
我にてありしか

今は亡き姉の恋人のおとうとと
なかよくせしを
かなしと思ふ

夏休み果《は》ててそのまま
かへり来《こ》ぬ
若き英語の教師もありき

ストライキ思ひ出《い》でても
今は早《は》や吾が血|躍《をど》らず
ひそかに淋《さび》し

盛岡《もりをか》の中学校の
露台《バルコン》の
欄干《てすり》に最一度《もいちど》我を倚《よ》らしめ

神有りと言ひ張る友を
説《と》きふせし
かの路傍《みちばた》の栗《くり》の樹《き》の下《もと》

西風に
内丸大路《うちまるおほぢ》の桜の葉
かさこそ散るを踏《ふ》みてあそびき

そのかみの愛読の書《しよ》よ
大方《おほかた》は
今は流行《はや》らずなりにけるかな

石ひとつ
坂をくだるがごとくにも
我けふの日に到り着きたる

愁《うれ》ひある少年《せうねん》の眼に羨《うらや》みき
小鳥の飛ぶを
飛びてうたふを

解剖《ふわけ》せし
蚯蚓《みみず》のいのちもかなしかり
かの校庭の木柵《もくさく》の下《もと》

かぎりなき知識の慾《よく》に燃ゆる眼を
姉は傷《いた》みき
人恋ふるかと

蘇峯《そほう》の書《しよ》を我に薦《すす》めし友早く
校《かう》を退《しりぞ》きぬ
まづしさのため

おどけたる手つきをかしと
我のみはいつも笑ひき
博学の師を

自《し》が才《さい》に身をあやまちし人のこと
かたりきかせし
師もありしかな

そのかみの学校一のなまけ者
今は真面目《まじめ》に
はたらきて居《を》り

田舎《ゐなか》めく旅の姿を
三日《みか》ばかり都に曝《さら》し
かへる友かな

茨島《ばらじま》の松の並木の街道を
われと行きし少女《をとめ》
才《さい》をたのみき

眼を病みて黒き眼鏡《めがね》をかけし頃
その頃よ
一人泣くをおぼえし

わがこころ
けふもひそかに泣かむとす
友みな己《おの》が道をあゆめり

先《さき》んじて恋のあまさと
かなしさを知りし我なり
先んじて老《お》ゆ

興《きよう》来《きた》れば
友なみだ垂《た》れ手を揮《ふ》りて
酔漢《ゑひどれ》のごとくなりて語りき

人ごみの中をわけ来《く》る
わが友の
むかしながらの太《ふと》き杖《つゑ》かな

見よげなる年賀の文《ふみ》を書く人と
おもひ過ぎにき
三年《みとせ》ばかりは

夢さめてふっと悲しむ
わが眠り
昔のごとく安からぬかな

そのむかし秀才《しうさい》の名の高かりし
友|牢《らう》にあり
秋のかぜ吹く

近眼《ちかめ》にて
おどけし歌をよみ出《い》でし
茂雄《しげを》の恋もかなしかりしか

わが妻のむかしの願ひ
音楽のことにかかりき
今はうたはず

友はみな或日《あるひ》四方《しはう》に散り行《ゆ》きぬ
その後《のち》八年《やとせ》
名《な》挙《あ》げしもなし

わが恋を
はじめて友にうち明けし夜《よる》のことなど
思ひ出《い》づる日

糸切れし紙鳶《たこ》のごとくに
若き日の心かろくも
とびさりしかな

   二

ふるさとの訛《なまり》なつかし
停車場《ていしやば》の人ごみの中に
そを聴《き》きにゆく

やまひある獣《けもの》のごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし

ふと思ふ
ふるさとにゐて日毎《ひごと》聴《き》きし雀《すずめ》の鳴くを
三年《みとせ》聴かざり

亡《な》くなれる師がその昔
たまひたる
地理の本など取りいでて見る

その昔
小学校の柾屋根《まさやね》に我が投げし鞠《まり》
いかにかなりけむ

ふるさとの
かの路傍《みちばた》のすて石よ
今年も草に埋《うづ》もれしらむ

わかれをれば妹《いもと》いとしも
赤き緒《を》の
下駄《げた》など欲《ほ》しとわめく子なりし

二日《ふつか》前に山の絵《ゑ》見しが
今朝《けさ》になりて
にはかに恋しふるさとの山

飴売《あめうり》のチャルメラ聴《き》けば
うしなひし
をさなき心ひろへるごとし

このごろは
母も時時《ときどき》ふるさとのことを言ひ出《い》づ
秋に入《い》れるなり

それとなく
郷里《くに》のことなど語り出《い》でて
秋の夜《よ》に焼く餅《もち》のにほひかな

かにかくに渋民村《しぶたみむら》は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川

田も畑《はた》も売りて酒のみ
ほろびゆくふるさと人《びと》に
心寄する日

あはれかの我の教へし
子等《こら》もまた
やがてふるさとを棄《す》てて出《い》づるらむ

ふるさとを出《い》で来《き》し子等の
相会《あいあ》ひて
よろこぶにまさるかなしみはなし

石をもて追はるるごとく
ふるさとを出《い》でしかなしみ
消ゆる時なし

やはらかに柳あをめる
北上《きたかみ》の岸辺《きしべ》目に見ゆ
泣けとごとくに

ふるさとの
村医《そんい》の妻のつつましき櫛巻《くしまき》なども
なつかしきかな

かの村の登記所《とうきしよ》に来て
肺《はい》病《や》みて
間もなく死にし男もありき

小学の首席を我と争《あらそ》ひし
友のいとなむ
木賃宿《きちんやど》かな

千代治等《ちよぢら》も長《ちやう》じて恋し
子を挙《あ》げぬ
わが旅にしてなせしごとくに

ある年の盆《ぼん》の祭に
衣《きぬ》貸《か》さむ踊れと言ひし
女を思ふ

うすのろの兄と
不具《かたは》の父もてる三太《さんた》はかなし
夜《よる》も書《ふみ》読《よ》む

我と共に
栗毛《くりげ》の仔馬《こうま》走らせし
母の無き子の盗癖《ぬすみぐせ》かな

大形《おほがた》の被布《ひふ》の模様の赤き花
今も目に見ゆ
六歳《むつ》の日の恋

その名さへ忘られし頃
飄然《へうぜん》とふるさとに来て
咳《せき》せし男

意地悪《いぢわる》の大工《だいく》の子などもかなしかり
戦《いくさ》に出《い》でしが
生きてかへらず

肺を病む
極道地主《ごくだうぢぬし》の総領《そうりやう》の
よめとりの日の春の雷《らい》かな

宗次郎《そうじろ》に
おかねが泣きて口説《くど》き居《を》り
大根《だいこん》の花白きゆふぐ
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