なしとも見き

やや長きキスを交《かは》して別れ来《き》し
深夜の街の
遠き火事かな

病院の窓のゆふべの
ほの白《じろ》き顔にありたる
淡《あは》き見覚《みおぼ》え

何時《いつ》なりしか
かの大川《おほかは》の遊船《いうせん》に
舞《ま》ひし女をおもひ出《で》にけり

用もなき文《ふみ》など長く書きさして
ふと人こひし
街に出《で》てゆく

しめらへる煙草《たばこ》を吸へば
おほよその
わが思ふことも軽《かろ》くしめれり

するどくも
夏の来《きた》るを感じつつ
雨後《うご》の小庭《こには》の土の香《か》を嗅《か》ぐ

すずしげに飾《かざ》り立てたる
硝子屋《ガラスや》の前にながめし
夏の夜の月

君来るといふに夙《と》く起き
白シャツの
袖《そで》のよごれを気にする日かな

おちつかぬ我が弟の
このごろの
眼のうるみなどかなしかりけり

どこやらに杭《くひ》打つ音し
大桶《おほをけ》をころがす音し
雪ふりいでぬ

人気《ひとけ》なき夜《よ》の事務室に
けたたましく
電話の鈴《りん》の鳴りて止みたり

目さまして
ややありて耳に入《い》り来《きた》る
真夜中すぎの話声かな

見てをれば時計とまれり
吸はるるごと
心はまたもさびしさに行《ゆ》く

朝朝《あさあさ》の
うがひの料《しろ》の水薬《すゐやく》の
罎《びん》がつめたき秋となりにけり

夷《なだら》かに麦の青める
丘の根の
小径《こみち》に赤き小櫛《をぐし》ひろへり

裏山の杉生《すぎふ》のなかに
斑《まだら》なる日影《ひかげ》這《は》ひ入《い》る
秋のひるすぎ

港町
とろろと鳴きて輪を描く鳶《とび》を圧《あつ》せる
潮《しほ》ぐもりかな

小春日《こはるび》の曇硝子《くもりガラス》にうつりたる
鳥影《とりかげ》を見て
すずろに思ふ

ひとならび泳げるごとき
家家《いへいへ》の高低《たかひく》の軒《のき》に
冬の日の舞ふ

京橋の滝山町《たきやまちやう》の
新聞社
灯《ひ》ともる頃のいそがしさかな

よく怒《いか》る人にてありしわが父の
日ごろ怒《いか》らず
怒れと思ふ

あさ風が電車のなかに吹き入《い》れし
柳《やなぎ》のひと葉
手にとりて見る

ゆゑもなく海が見たくて
海に来ぬ
こころ傷《いた》みてたへがたき日に

たひらなる海につかれて
そむけたる
目をかきみだす赤き帯《おび》かな

今日|逢《あ》ひし町の女の
どれもどれも
恋にやぶれて帰るごとき日

汽車の旅
とある野中《のなか》の停車場の
夏草の香《か》のなつかしかりき

朝まだき
やっと間《ま》に合《あ》ひし初秋《はつあき》の旅出《たびで》の汽車の
堅《かた》き麺麭《ぱん》かな

かの旅の夜汽車の窓に
おもひたる
我がゆくすゑのかなしかりしかな

ふと見れば
とある林の停車場の時計とまれり
雨の夜《よ》の汽車

わかれ来《き》て
燈火《あかり》小暗《をぐら》き夜の汽車の窓に弄《もてあそ》ぶ
青き林檎《りんご》よ

いつも来《く》る
この酒肆《さかみせ》のかなしさよ
ゆふ日|赤赤《あかあか》と酒に射《さ》し入《い》る

白き蓮沼《はすぬま》に咲くごとく
かなしみが
酔《ゑ》ひのあひだにはっきりと浮く

壁《かべ》ごしに
若き女の泣くをきく
旅の宿屋の秋の蚊帳《かや》かな

取りいでし去年《こぞ》の袷《あはせ》の
なつかしきにほひ身に沁《し》む
初秋《はつあき》の朝

気にしたる左の膝《ひざ》の痛みなど
いつか癒《なほ》りて
秋の風吹く

売り売りて
手垢《てあか》きたなきドイツ語の辞書のみ残る
夏の末かな

ゆゑもなく憎《にく》みし友と
いつしかに親しくなりて
秋の暮れゆく

赤紙《あかがみ》の表紙|手擦《てず》れし
国禁《こくきん》の
書《ふみ》を行李《かうり》の底にさがす日

売ることを差し止《と》められし
本の著者に
路《みち》にて会へる秋の朝かな

今日よりは
我も酒など呷《あふ》らむと思へる日より
秋の風吹く

大海《だいかい》の
その片隅《かたすみ》につらなれる島島《しまじま》の上に
秋の風吹く

うるみたる目と
目の下の黒子《ほくろ》のみ
いつも目につく友の妻かな

いつ見ても
毛糸の玉をころがして
韈《くつした》を編《あ》む女なりしが

葡萄色《えびいろ》の
長椅子《ながいす》の上に眠りたる猫ほの白《じろ》き
秋のゆふぐれ

ほそぼそと
其処《そこ》ら此処《ここ》らに虫の鳴く
昼の野に来て読む手紙かな

夜《よる》おそく戸を繰《く》りをれば
白きもの庭を走れり
犬にやあらむ

夜の二時の窓の硝子《ガラス》を
うす紅《あか》く
染めて音なき火事の色かな

あはれなる恋かなと
ひとり呟《つぶや》きて
夜半《よは》の火桶《ひをけ》に炭《すみ》添《そ》へにけり

真白《ましろ》なるラムプの笠《かさ
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