たる
大切の言葉は今も
胸にのこれど
真白《ましろ》なるラムプの笠《かさ》の
瑕《きず》のごと
流離の記憶消しがたきかな
函館《はこだて》のかの焼跡《やけあと》を去りし夜《よ》の
こころ残りを
今も残しつ
人がいふ
鬢《びん》のほつれのめでたさを
物書く時の君に見たりし
馬鈴薯《ばれいしよ》の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ
山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり
忘れをれば
ひょっとした事が思ひ出の種《たね》にまたなる
忘れかねつも
病《や》むと聞き
癒《い》えしと聞きて
四百里《しひやくり》のこなたに我はうつつなかりし
君に似し姿を街《まち》に見る時の
こころ躍《をど》りを
あはれと思へ
かの声を最一度《もいちど》聴《き》かば
すっきりと
胸や霽《は》れむと今朝《けさ》も思へる
いそがしき生活《くらし》のなかの
時折《ときおり》のこの物おもひ
誰《たれ》のためぞも
しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出《い》でなむ
死ぬまでに一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか
時として
君を思へば
安かりし心にはかに騒ぐかなしさ
わかれ来《き》て年《とし》を重ねて
年《とし》ごとに恋しくなれる
君にしあるかな
石狩《いしかり》の都《みやこ》の外の
君が家
林檎《りんご》の花の散りてやあらむ
長き文《ふみ》
三年《みとせ》のうちに三度《みたび》来《き》ぬ
我の書きしは四度《よたび》にかあらむ
手套を脱ぐ時
手套《てぶくろ》を脱《ぬ》ぐ手ふと休《や》む
何やらむ
こころかすめし思ひ出のあり
いつしかに
情《じやう》をいつはること知りぬ
髭《ひげ》を立てしもその頃なりけむ
朝の湯の
湯槽《ゆぶね》のふちにうなじ載《の》せ
ゆるく息《いき》する物思ひかな
夏|来《く》れば
うがひ薬の
病《やまひ》ある歯に沁《し》む朝のうれしかりけり
つくづくと手をながめつつ
おもひ出《い》でぬ
キスが上手《じやうず》の女なりしが
さびしきは
色にしたしまぬ目のゆゑと
赤き花など買はせけるかな
新しき本を買ひ来て読む夜半《よは》の
そのたのしさも
長くわすれぬ
旅《たび》七日《なのか》
かへり来《き》ぬれば
わが窓の赤きインクの染《し》みもなつかし
古文書《こもんじよ》のなかに見いでし
よごれたる
吸取紙《すひとりがみ》をなつかしむかな
手にためし雪の融《と》くるが
ここちよく
わが寐飽《ねあ》きたる心には沁《し》む
薄れゆく障子《しやうじ》の日影《ひかげ》
そを見つつ
こころいつしか暗くなりゆく
ひやひやと
夜は薬の香《か》のにほふ
医者が住みたるあとの家《いへ》かな
窓硝子《まどガラス》
塵《ちり》と雨とに曇《くも》りたる窓硝子にも
かなしみはあり
六年《むとせ》ほど日毎日毎《ひごとひごと》にかぶりたる
古き帽子も
棄《す》てられぬかな
こころよく
春のねむりをむさぼれる
目にやはらかき庭の草かな
赤煉瓦《あかれんぐわ》遠くつづける高塀《たかべい》の
むらさきに見えて
春の日ながし
春の雪
銀座の裏の三階の煉瓦|造《づくり》に
やはらかに降る
よごれたる煉瓦の壁に
降りて融《と》け降りては融くる
春の雪かな
目を病《や》める
若き女の倚《よ》りかかる
窓にしめやかに春の雨降る
あたらしき木のかをりなど
ただよへる
新開町《しんかいまち》の春の静けさ
春の街《まち》
見よげに書ける女名《をんなな》の
門札《かどふだ》などを読みありくかな
そことなく
蜜柑《みかん》の皮の焼くるごときにほひ残りて
夕《ゆふべ》となりぬ
にぎはしき若き女の集会《あつまり》の
こゑ聴《き》き倦《う》みて
さびしくなりたり
何処《どこ》やらに
若き女の死ぬごとき悩《なや》ましさあり
春の霙《みぞれ》降る
コニャックの酔《ゑ》ひのあとなる
やはらかき
このかなしみのすずろなるかな
白き皿《さら》
拭《ふ》きては棚《たな》に重《かさ》ねゐる
酒場の隅《すみ》のかなしき女
乾きたる冬の大路《おほぢ》の
何処《いづく》やらむ
石炭酸《せきたんさん》のにほひひそめり
赤赤《あかあか》と入日《いりひ》うつれる
河ばたの酒場の窓の
白き顔かな
新しきサラドの皿《さら》の
酢《す》のかをり
こころに沁《し》みてかなしき夕《ゆふべ》
空色《そらいろ》の罎《びん》より
山羊《やぎ》の乳をつぐ
手のふるひなどいとしかりけり
すがた見の
息《いき》のくもりに消されたる
酔《ゑ》ひうるみの眸《まみ》のかなしさ
ひとしきり静かになれる
ゆふぐれの
厨《くりや》にのこるハムのにほひかな
ひややかに罎《びん》のならべる棚《たな》の前
歯《は》せせる女を
か
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