トルストイ翁論文
石川啄木
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)如此《かくのごと》きに
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)其|相喰《あひは》み
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(例)[#「法廷に」は底本では「法延に」]
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レオ・トルストイ翁のこの驚嘆すべき論文は、千九百四年(明治三十七年)六月二十七日を以てロンドン・タイムス紙上に發表されたものである。その日即ち日本皇帝が旅順港襲撃の功勞に對する勅語を東郷聯合艦隊司令長官に賜はつた翌日、滿洲に於ける日本陸軍が分水嶺の占領に成功した日であつた。當時極東の海陸に起つてゐた悲しむべき出來事の電報は、日一日とその日本軍の豫想以上なる成功を以て世界を駭かしてゐた。さうしてその時に當つて、この論文の大意を傳へた電報は、實にそれ等の恐るべき電報にも増して深い、且つ一種不可思議な感動を數知れぬ人々の心に惹起せしめたものであつた。日本では八月の初めに至つて東京朝日新聞、週刊平民新聞の二紙がその全文を譯載し、九月一日の雜誌時代思潮は英文の全文を轉載した。さうして色々の批評を喚起した。此處に寫した譯文は即ちその平民新聞第三十九號(八月七日)の殆ど全紙面を埋めたもので、同號はために再版となり、後また文明堂といふ一書肆から四六版の册子として發行されたが、今はもう絶版となつた。飜譯は平民社の諸氏、殊に幸徳、堺二氏の協力によつたものと認められる。
平民新聞はこの譯文を發表して置いて、更に次の號、即ち第四十號(八月十四日)の社説に於いてトルストイ翁の論旨に對する批評を試みた。蓋しそれは、社會主義の見地を持してゐたこの新聞にとつては正にその必要があつたのである。さうしてこれを試みるに當つて、かの記者の先づ發した聲は實はその抑へむとして抑へ難き歡喜の聲であつた。「吾人は之を讀んで、殆ど古代の聖賢若くは豫言者の聲を聽くの思ひありき。」かういふ讃嘆の言葉をも彼等は吝まなかつた。想ふに、當時彼等は國民を擧げて戰勝の恐ろしい喜びに心を奪はれ、狂人の如く叫び且つ奔つてゐる間に、ひとり非戰論の孤壘を守つて、嚴酷なる當局の壓迫の下に苦しい戰ひを續けてゐたのである。さればその時に於いて、日本人の間にも少なからざる思慕者を有するトルストイ翁がその大膽なる非戰意見を發表したといふことは、その論旨の如何に拘らず、實際彼等にとつては思ひがけざる有力の援軍を得たやうに感じられたに違ひない。さうして又、一言一句の末にまで容赦なき拘束を受けて、何事に限らず、その思ふ所をそのままに言ふことを許されない境遇にゐた彼等は、翁の大膽なる論文とその大膽を敢てし得る勢力とに對して、限りなき羨望の情を起さざるを得なかつたに違ひない。「而して吾人が特に本論に於て、感嘆崇敬措く能はざる所の者は、彼が戰時に於ける一般社會の心的及び物的情状を觀察評論して、露國一億三千萬人、日本四千五百萬人の、曾て言ふこと能はざる所を直言し、決して寫す能はざる所を直寫して寸毫の忌憚する所なきに在り。」これ實に彼等我が日本に於ける不幸なる人道擁護者の眞情であつた。
然しながら彼等は社會主義者であつた。さうして又明白に社會主義者たる意識をもつてゐた。故にかの記者は、翁の説く所の戰爭の起因及びその救治の方法の、あまりに單純に、あまりに正直に、さうしてあまりに無計畫なるを見ては、「單に如此《かくのごと》きに過ぎずとせば、吾人豈失望せざるを得んや。何となれば、是れ恰も『如何にして富むべきや』てふ問題に對して、『金を得るに在り』と答ふるに均しければ也。是れ現時の問題を解決し得るの答辯にあらずして、唯だ問題を以て問題に答ふる者に非ずや。」と叫ばざるを得なかつた。(人は盡く夷齊《いせい》に非ず。單に『悔改めよ』と叫ぶこと、幾千萬年なるも、若しその生活の状態を變じて衣食を足らしむるに非ずんば、其|相喰《あひは》み、相搏《あひう》つ、依然として今日の如けんのみ)これは唯物史觀の流れを汲む人々の口から、當然出ねばならぬ言葉であつた。かくてかの記者は進んで彼等自身の戰爭觀を概説し、「要するにトルストイ翁は、戰爭の原因を以て個人の墮落に歸す、故に悔改めよと教へて之を救はんと欲す。吾人社會主義者は、戰爭の原因を以て經濟的競爭に歸す、故に經濟的競爭を廢して之を防遏せんと欲す。」とし、以て兩者の相和すべからざる相違を宣明せざるを得なかつた。
この宣明は、然しながら、當時の世人から少しも眼中に置かれなかつた。この一事は、他の今日までに我々に示された幾多の事實と共に、日本人――文化の民を以て誇稱する日本人の事實を理解する力の如何に淺弱に、さうしてこの自負心強き民族の如何に偏狹なる、如何に獨斷的なる、如何に厭ふべき民族なるかを語るもので
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