ある。即ち、彼等はこの宣明をなしたるに拘らず、單にトルストイ翁の非戰論を譯載し、且つ彼等も亦一個の非戰主義者であつたが故に、當時世人から一般にトルストイを祖述する者として取り扱はれ、甚だしきに至つては、日本の非戰論者が主戰論者に對して非人道と罵り、惡魔と呼んで罵詈するのは、トルストイの精神とは全く違ふのだといふやうな非難をさへ蒙つたのである。さうして此非難の發言者は、實に當時トルストイの崇拜者、飜譯者として名を知られてゐた宗教家加藤直士氏であつた。彼は、恰もかの法廷に[#「法廷に」は底本では「法延に」]於ける罪人が、自己に不利益なる證據物に對しては全然關知せざるものの如く裝ひ、或は虚構の言を以て自己の罪を否定せむと試むるが如く、その矛盾極まる主戰論を支持せむが爲には、トルストイ翁が如何に酷烈にその論敵を取り扱ふ人であるかの事實さへも曲庇《きよくひ》して省りみなかつたのである。
 若し夫れこの論文それ自身に加へられた他の日本人の批評に至つては、また實に畢竟「日本人」の批評であつた。日本第一流の記者、而して御用紙國民新聞社長たる徳富猪一郎氏は、翁が露國を攻撃した點に對しては、「これ恐らくは天がトルストイ伯の口を假りて、露國の罪惡を彈劾せしめたるの言なるべし。」と賞讚しながら、日本の行爲を攻撃した部分に對しては、「此に至りて伯も亦スラーヴ人の本色を脱する能はず候。」と評した。又かの高名なる宗教家海老名彈正氏も、翁が露西亞の宗教家、學者、識者を罵倒し、その政治に反對し、延いて戰爭そのものに反對するに至つた所以を力強く是認して、「彼が絶對的に非戰論者たらざるを得ないのは、實に尤も千萬である。」と言ひながら、やがて何等の説明もなく、「彼は露西亞帝國の豫言者である。然も彼をして日本帝國の豫言者となし、吾人をして其聲に傾聽せしめんと欲するは大なる謬見である。」といふ結論に達せねばならなかつた――然り、ねばならなかつた。又他の人々も、或は右同樣の筆法を以て、或は戰爭正當論を以て、各々、日本人にして翁の言に眞面目に耳を傾くる者の生ぜんことを防遏するに努めねばならなかつた。實際當時の日本論客の意見は、平民新聞記者の笑つた如く、何れも皆「非戰論は露西亞には適切だが、日本には宜しくない。」といふ事に歸着したのである。さうして彼等愛國家の中の一人が、「翁は我が日本を見て露國と同一となす。不幸にして我が國情の充分に彼の地に傳へられざりし爲、翁をして非難の言を放たしめたるは吾人の悲しむ所なり。」と言つた時、同じ記者の酬いた一矢はかうであつた。曰く、「否、翁にして日本の國情を知悉せば、更に日本攻撃の筆鋒鋭利を加へしことならん。」
 ただその間に於て、ひとり異色を帶びて、翁の理想の直ちに實行する能はざるものなるを首肯しつつ、猶且つ非常の敬意を以て之を辯護したものは、雜誌時代思潮であつた。
 予の始めてこの論文に接したのは、實にその時代思潮に轉載された英文によつてである。當時語學の力の淺い十九歳の予の頭腦には、無論ただ論旨の大體が朧氣に映じたに過ぎなかつた。さうして到る處に星の如く輝いてゐる直截、峻烈、大膽の言葉に對して、その解し得たる限りに於て、時々ただ眼を圓くして驚いたに過ぎなかつた。「流石に偉い。然し行はれない。」これ當時の予のこの論文に與へた批評であつた。さうしてそれつきり忘れて了つた。予も亦無雜作に戰爭を是認し、且つ好む「日本人」の一人であつたのである。
 その夜、予が茲に初めてこの論文を思ひ出し、さうして之を態々寫し取るやうな心を起すまでには八年の歳月が色々の起伏を以て流れて行つた。八年! 今や日本の海軍は更に對米戰爭の爲に準備せられてゐる。さうしてかの偉大なる露西亞人はもう此世の人でない。
 然し予は今猶決してトルストイ宗の信者ではないのである。予はただ翁のこの論に對して、今も猶「偉い、然し行はれない。」といふ外はない。但しそれは、八年前とは全く違つた意味に於てである。この論文を書いた時、翁は七十七歳であつた。(明治四十四年五月稿)



底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店
   1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行
入力:蒋龍
校正:小林繁雄
2009年9月10日作成
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