轤ハように、大急ぎで一つすばらしい蔵書印をこしらえなくちゃ……」
私はその後D博士を訪問する度に、その書斎の硝子戸越しに、幾度かこの二冊の書物を見た。その都度書物の背の金文字は藪睨みのような眼つきをして、
「おや、宣教師さん。いらっしゃい。」
と、当つけがましく挨拶するように思われた。
私はその瞬間、
「おう、すっかり忘れていた。今度こそは大急ぎで一つ蔵書印のすばらしく立派な奴を……」
と、いつでも考え及ぶには及ぶのだったが、その都度忘れてしまって、いまだに蔵書印というものを持たないでいる。
[#改ページ]
ある日の基督
1
西班牙《スペイン》の ALPUJARRAS 山には、人間の顔をした梟が棲んでいるそうです。それについて土地の人達のなかに、むかしからこんな事が言い伝えられています。
あるとき、キリストがヨハネとペテロとを連れて、この山の裾野を通りかかったことがありました。師匠も弟子もひどく腹がすいていました。折よく山羊の群を飼っている男に出会《でくわ》したので、ペテロがその男を呼びとめて、
「村の衆。私達は旅の者だが、ひどく腹が減って困っている。どうか私達のためにお前さんの山羊を一つ御馳走してはくれまいか。」
と頼んでみました。羊飼はひどく吝《しわ》い男でしたから、初のうちはなかなか承知しそうにもありませんでしたが、三人が口を揃えてうるさく強請《せが》むので、ぶつくさ呟きながらも引請けるには引請けました。
だが、羊飼は自分の山羊を使おうとはしないで、代りに猫を殺して、それでもって客を振舞いました。キリストは食卓につくなり、変な眼つきをしてその肉片を見ていましたが、暫くすると口のなかで、
[#ここから3字下げ]
皿のなかの油揚《フライ》
山羊ならよいが
小猫の肉《み》なら
やっとこさで逃げ出しゃれ
[#ここで字下げ終わり]
と、二、三度繰り返して言いました。すると、皿のなかの油揚が急に立ちあがり、窓越しに外へ飛び出して、そのまま姿を隠してしまいました。
「不埒な羊飼だ。こんな男はいっそ梟にでも生れ代るといいのに……」
キリストは腹立まぎれに独語のように呟《ぼや》きました。すると、その次の一刹那には、羊飼の姿がそこから消えてしまって、人間のような顔をした梟が一羽、※[#「木+眉」、第3水準1−85−86]《まぐさ》の上にとまっていましたが、二、三度羽ばたきをしたかと思うと、ついと家の外へ飛び出してしまいました。
「ほう、羊飼が梟になりおった。気の毒なことをしたな。だが、あれよりも可憫《かあい》そうなのは私だよ。無駄口一つきく事が出来ないのだからな。」
キリストはそれを見て、心のなかでこんなことを思いました。そして神の子に生れて、摩訶不思議な力を持っているものの世間の狭さ、窮屈さを思って、微かな溜息をもらしました。
2
その後、キリストはまた多くの弟子達を連れて、ユダヤのある村を通りかかった事がありました。村端れには柳の並木の美しい野原が続いていました。
その日はぽかぽか暖か過ぎるほどの上天気だったので、キリストは上衣を脱いで、一本の柳の枝に掛けました。そして彼は村人の多くがこの救世主の説教を聴こうとして待合せている野の傾斜をさして歩き出しました。
説教のすばらしい出来に満足したキリストは、足どりも軽く柔い草を踏んで、柳の並木に帰って来ました。しかし、いくら捜しても、彼の上衣と、その上衣を掛けておいた柳の木はそこらに見つかりませんでした。
「てっきり柳の木があの上衣を持逃げしたのだ。あれはある信者の女が、自分の手で織ってよこしたもので、極上等の織物だったからな。だが、この時候に上衣なしに外を出歩かねばならないなんて……」
キリストはそう思うと、忌々しくて溜りませんでした。彼は眼を上げて柳の並木を見ました。柳の木はこの若い救世主をなぶるように、長い下枝をゆらゆらと揺り動かせました。
「ひとの物を持逃げするなんて。そんな木は一本残らず消えてなくなればいい。」
キリストはうっかり口を滑らしました。すると、その瞬間そこらの柳の並木は、急に葉も、枝も、萎れかえってすっかり立枯となってしまいました。
「おう、柳の木が枯れてしまった。――可憫そうなことをしたな。だが、ほんとうのことをいうと、あの木よりも私の方が可憫そうなんだ。うっかり口もきけないという仕末なのだからな。」
キリストは以前西班牙の山の中で羊飼を梟にした失敗《しくじり》を思い出して、自分が不用意に洩した言葉がそのまま実現せられてゆくのに驚きました。自分がつぶやくように言った言葉を、すぐにその仕事の一つに取入れる神の慈愛に驚くよりも、その神を動かすあるものが自分の内に隠れているのに驚きました。そしてまたしても神の子に生れて、摩訶不思議な力を身に具えている自分の世間の狭さ、窮屈さを心から悲しんだという事です。
[#改ページ]
老和尚とその弟子
名高い西宮海清寺の住職南天棒和尚の弟子に、東馬《とうま》甚斎という居士があった。満洲に放浪していた頃は、馬賊の群に交って、相応な働をしたと言われるほどあって、筋骨の逞しい、鬼のようにいかつい恰幅をした壮士で、日本に帰って来てからは、そこらの電車に乗るのにいつも切符というものを持たないで、車掌がそれを喧《やかま》しく言うと、
「俺は東馬だ。顔を見覚えておけ、顔を……」
と獣のような不気味な顔を、相手の鼻先に突き出すので、車掌も運転手も度胆をぬかれて、ぶつくさ呟きながらも、大抵はそのまま見遁していたものだった。
あるとし、満洲から帰って海清寺に落ちついた甚斎は、僧堂に自分の気に添わない雲水が二、三人いることに気がついた。
「あんなのは、一日も早く追い出さなくちゃ。和尚の顔にもかかわることだ。」
甚斎は腹のなかでそう思ったらしかった。彼はその翌日から庫裡《くり》へ顔を出した。そして雲水たちの食事の世話を焼きだした。
ある朝、雲水たちは汁鍋の蓋を取ってびっくりした。鍋のなかには、無造作にひきちぎられた雑草の葉っぱの上に、殿様蛙の幾匹かが、味噌汁の熱気に焼け爛れた身体を、苦しそうにしゃちこ張らせたまま、折重って死んでいた。
「気味が悪いな。一体どうしてこんなものが……」
雲水の一人は咎めだてするように、そこに突立っている甚斎の顔を見た。
「俺の手料理さ。肉食の好きな君たちには、あまり珍らしくもあるまいが、まあ遠慮せんで食べてくれ。俺もここでお相伴《しょうばん》をするから。」
甚斎はこう言って、皆の汁椀にそれぞれ雑草の葉っぱと蛙とを盛り分けた。そして鍋に残った蛙の死骸の一つをつまみ上げて、蝦蟇《がま》仙人のように自分の掌面《てのひら》に載せたかと思うと、いきなり唇を尖《とが》らせてするするとそれを鵜呑にしてしまった。
皆は呆気にとられた。そして不気味そうに自分たちの椀のなかを覗き込んでじっと眉を顰《ひそ》めていたが、眼の前にいっかい膝の上で石のような拳《こぶし》を撫でまわしている甚斎の姿を見ると、悲しそうにそっと溜息をついた。
皆は不承不精に椀を取り上げた。そして犬のように臭気《くさみ》を嗅ぎながら、雑草の葉っぱを前歯でちょっぴり噛ってみたり、蛙の後脚をそっと舌でさわってみたりした。
そんなことが度重るうちに、自分の身にうしろ暗いところのある雲水は、後々《あとあと》を気遣って、いつの間にか寺から姿を隠してしまった。甚斎は手を拍《う》って喜んだ。
そのことが南天棒の耳に入ると、甚斎は方丈に呼び出された。他人のなかでは荒馬のように粗暴な甚斎も、和尚の前へ出ては猫のようにおとなしかった。和尚はいった。
「東馬、お前は雲水たちをいびり出したそうじゃな。乱暴にも程があるじゃないか。」
「はい。別に追出したというわけではありませんが……」甚斎は雄鶏のように昂然と胸を反《そ》らせた。「彼等から出て往きました。雲水にもあるまじき所業の多かった輩《てあい》でしたから、あとに残ったものは、実際救われましたようなわけで……」
老和尚は相手の得意そうな顔をじろりと見返した。
「後に残ったものは救われたかも知れんが、出て往ったものは救われたじゃろうかな。」
「……」甚斎は壁に衝き当ったようにどぎまぎした。
「救われないかも知れませんが、それにしたって、あんな不行跡者は仕方がありません。」
「それはいかん。」和尚はこう言って、側の本箱から一冊の写本を取出した。そして紙に折目のついているところを繰り開けて、甚斎の鼻先に突きつけた。「ここのところを読んでみなさい。声をあげて。」
甚斎は和尚の手から本を受取った。そして納所坊主《なっしょぼうず》がお経を読む折のように、声を張り上げてそれを読み出した。
「下谷高岸寺に、ある頃弟子僧二人あり。一人は律義廉直にして、専ら寺徳をなす。一人は戒行を保たで、大酒を好み、あまつさへ争論止まず、私多し。ある時什物を取出し売るを――ひどい奴があったものですな。まるで此寺《こちら》の雲水そっくりのようで……。」
「むだ口を利《き》かんと、後を読みなさい。」
和尚は媼さんのような口もとをしてたしなめた。甚斎はまた読み続けた。
「あるとき、什物を取出し売るを、一人の僧見て諫《いさめ》を加へけるに、聞入れざれば、この由住持に告げ、追退《おいの》け給はずば、ために悪しかりなんと言ふ。住持先づ諭し見るべしとて、厳しく戒めたるままにて捨て置きぬ。又あるとき仏具を取出し売りたるに、いよいよ禍ひに及び、わが身にもかからん間、彼のものに給はずんば、我に暇給はるべしと頻りに言ひける程に、住持涙を浮べ、さあらば、願ひのままにその方に暇をつかはすべし。悪僧は今暫し傍におきて諭すべしといふに――これは手ぬるい。ねえ、老師。少し手ぬるいじゃござんせんか。」
「どうでもいい、そんなことは。早く後を読み続けなさい。」
和尚はわざと突っ放すように言った。甚斎は亀の子のように首をすくめた。
「この僧大いに怨み、われ暇のこと申さば、悪僧を追出し給はんと思ふものから、それを却つて罪なきわれに暇給はること、近頃|依怙《えこ》の心に非ずやといへば、住持答へて、さにあらず、御身は今この寺を出でたりとも、僧一人の勤めはなるものなり。悪僧は今わが傍《かたえ》を離るれば、忽ち捕はれて罪人とならんも計り難し。さすれば……」
甚斎は間《ま》が悪いように段々と声を落して、くどくどと口のなかで読み下した。
「もっと声を大きくして……」
和尚は注意をした。甚斎の声は灯《ひ》をかきたてたように、またぱっと明るくなった。
「わが徳も捨たれて、一人の弟子を失ふなり。故に傍《かたえ》に暫し置きて、彼が命をも延ばし、且は厳しく教戒をもせば、善心に立ち返ることもやありなんと思ふが故なり、と言へば、悪僧このことを聞き、師の厚恩に感じ、やがて本心に飜《か》へりしとぞ。」
読み終った甚斎が、幾らか不足そうな顔つきで書物を膝の上に置くと、和尚はそれを受取って、大事に本箱に蔵い込みながら言った。
「どうじゃ、わかったか。修業の足りない雲水が、悪いことをしたからというて、寺を追い出すのは、それは罪を重ねさすようなものなんじゃ。」
「どうも相済みません。」
甚斎は不満と後悔とのごっちゃになったような表情をした。
「いや。俺にあやまってくれても、俺はどうするわけにもゆかんて。」和尚はさも当惑したもののように言った。「折角俺を頼って来た仏弟子を、修業半ばに追い返したんじゃ、仏様に対して俺が相済まんわけじゃ。でお前には気の毒じゃが、一まずここを引き取ってもらいたい。」
「それはあんまりなお言葉です。老師が御承知の通り、私には家というものがありません。」
甚斎はいかつい顔を歪めて、鼻を詰らせたような声を出した。
「いや、家がないことはない。お前には世間というものがある。しかし寺を追い出された雲水には、何も残っていないのじゃ。」
「これからはきっと慎みますから、今度ばかりはどうぞ……」
甚斎は蛙のように両手をついてあやまった
前へ
次へ
全25ページ中21ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
薄田 泣菫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング