ュから西鶴の歎美者だったしそれに一代男というと……。」
 銀行家は、禿げた前額を撫上げながら、ちょっと言葉を切って、にやりとした。
「一代男というと……。」皆は頭のなかで、この草子の主人公世之助が、慾望の限を尽した遊蕩生活を繰返してみた。そして人情のうらおもて、とりわけ女心のかげひなたを知りぬいていたM氏にとって、こんなに好い道づれはまたとあるまいと思った。
「それはいい。Mさんと世之助とでは、きっと話が合うから。」
 皆は口を揃えて『好色一代男』を棺に納めることに同意した。そして生前懇意だった人のために、死後好い道づれを見つけることが出来たのを心から喜んだ。
「それじゃ、どなたも御異存はございませんな。」
 脚本作者のWが『一代男』八冊を手に取上げて、やっとこなと立上ろうとすると、急に次の間の襖が開いて、
「異存がおまっせ、わてに。」
と、呼びかけながら、いが栗頭の五十恰好の男が入って来た。大阪に名高い古本屋の主人で、M氏とは至って懇意な仲だった。
 古本屋の主人は、脚本作者の側に割込むと、ちょっと頭を下げて皆に挨拶した。そして懐中からぺちゃんこになった敷島の袋を取出すと、一本抜取ってそれに火をつけた。
「どなたのお言葉か知りまへんが、一代男をとは殺生だっせ。これを灰にして見なはれ。世間にたんとはない西鶴物が、また一部だけ影を隠すわけだすからな。それにこんな手持のよい一代男は、どこを捜したかて、滅多に見られるわけのものやおまへん。わてがこれを先生に納めたのは、つい先日《こないだ》のことだしたが、その時の値段が確か千五百円だしたぜ。」
「ほう、千五百円。そない高い本とは知らなんだ。どれ、どれ……。」
 駒十郎は、喫みさしの煙草を、火鉢の灰に突込んで、その手で脚本作者の膝から、本の一冊を取上げた。あたりの二、三人は、首をのばしてそれを覗き込んだ。
「そんなに高くなったかな。五百円の値を聞いて、びっくりしたのは、つい二、三年前のように思ったが。」古本好きの銀行家は、書物の値段が自分に相談なしに、ぐんぐんせり上っているのが、幾らか不機嫌らしかった。「ともかくも、そんなに高価なものを灰にしてしまっては、遺族の方々にも申訳がないから。」
「じゃ、一代男は思い止まりましょう。」
「外に何か見つかればいいが。」誰かがこんなことを言った。
 駒十郎は先刻から挿絵の一つに見とれて、側に坐った新聞記者のHを相手に、自分の出る芝居の番附だけは、どうかしてこんな風に描かせたいものだといったようなことを、小声でひそひそ話していた。
「いいものがおます。也有の『鶉衣』だす。」古本屋の主人は、勢よく立上ったかと思うと、かねて勝手を知った書棚に往って、四冊本の俳文集を取出して来た。
「この本だしたら、也有の名著で、先生のこの上もない愛読書だしたし、それに……。」

 皆は後を聞かないでも満足した。そして一代男の代りに鶉衣四冊を棺に納めることに同意した。
「ああ、そうだったな。」医者のGが、拍子ぬけのしたように呟いた。「也有もMさんも同じ尾張人だったから、途々名古屋弁でもって仲好く話して往くことだろうて。」
 皆はそれを聞くと、故人の特徴のある名古屋訛を思い出した。そしてそれももう二度と聞かれなくなったのだと思って、覚えずほろりとした。
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   暗示

     1

 こういう話がある。
 ある時、山ぞいの二また道を、若い男と若い女とが、どちらも同じ方向をさして歩いていたことがあった。
 二また道の間隔は、段々せばめられて、やがて一筋道となった。見ず知らずの二人は、一緒に連立って歩かなければならなくなった。
 若い男は、背には空になった水桶をかつぎ、左の手には鶏をぶら提げ、右の手には杖を持ちながら、一頭の山羊をひっぱっていた。
 道が薄暗い渓合に入って来ると、女は気づかわしそうに言葉をかけた。
「わたし何だか心配でたまらなくなったわ。こんな寂しい渓合を、あなたとたった二人で連立って歩いていて、もしかあなたが力ずくで接吻でもなすったら、どうしようかしら。ほんとうに困っちまうのよ。」
「え。僕が力ずくであなたを接吻するんですって。」男は思いがけない言いがかりに、腹立ちと可笑さとのごっちゃになった表情をした。「馬鹿をいうものじゃありません。僕は御覧の通り、こんなに大きな水桶を背負って、片手には鶏をぶら提げ、片手には杖をついて、おまけに山羊をひっぱってるじゃありませんか。まるで手足を縛られたも同然の僕に、そんな真似が出来ようはずがありませんよ。」
「それあそうでしょうけれど……。」女はまだ気が容せなさそうにいった。「でも、もしかあなたが、その杖を地べたに突きさして、それに山羊を繋いで、それから背の水桶をおろして、鶏をそのなかに伏せてさえおけば、いくら私が嫌がったって、力ずくで接吻することくらい出来るじゃありませんか。」
「そんなことなんか、僕考えてみたこともありません。」
 男は険しい眼つきで、きっと女の顔を睨んだが、ふとその紅い唇が眼につくと、何だか気の利いたことの言える唇だなと思った。
 二人は連立って、薄暗い樹蔭の小路に入って往った。人通りの全く絶えたあたりに来ると、男は女が言ったように、杖を地べたに突きさし、それに山羊を繋ぎ、背の水桶をおろして、鶏をそのなかに伏せた。そして女の肩を捉えて、無理強いに接吻したということだ。

     2

 この場合、若い男は初めのうちは何も知らなかったのだが、女の敏感な警戒性が思わず洩した一言に暗示せられて、それを実行に移したのである。善行にせよ、悪業にせよ、すべて男の勇敢な実行の背後には、得てしてこうした婦人の暗示が隠れているものだ。
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   詩人の喧騒

 支那の西湖に臨んで社廟が一つ立っている。廟の下手は湖水に漁獲《すなどり》をする小舟の多くが船がかりするところで、うすら寒い秋の夜などになると、篷《とま》のなかから貧しい漁師達が寝そびれた紛れの低い船歌を聞くことがよくある。
 月の明るいある夜のことだった。そこらに泊り合せた多くの船では、漁師たちはもう寝しずまったらしく、あたりはひっそりして何の物音も聞えなかった。その中に皆の群から少し離れて、社廟のすぐ真下《ました》に繋いだ小舟では、若い漁師がどうしたものかうまく寝つかれないで、唯ひとりもぞくさしていた。
 若い漁師は所在なさに篷を上げて外を見た。水銀のような青白い光の雫は、細かく湖の上に降り注いで、そのまま水に吸い込まれているようだった。時々小さな魚が水の面に跳ね上るのが見られたが、水泡の爆《は》ぜ割れる微かな音一つ立てなかった。
「静かな夜だなあ。」
 若い漁師は寒そうに首を竦《すく》めて、覚えずこう呟こうとして、そのまま口を噤んでしまった。少しでも声を立てて深い寂黙《しじま》を破るのが、何だか気味悪く感じられたのだ。
 漁師はまたもとのように篷の下に潜り込もうとしたが、ふと近くに何だか得体の分らない、怪しい騒めきが始まったのを聴きつけて、覚えず半身を舷から乗出すようにして聴耳を立てた。騒めきは掠めるような人声で、すぐ頭の上の社廟のなかに起きていた。何でも五、六人の人たちが、二組に分れて言い争っているらしかった。その一組は呼吸の通っている人達とみえて、声柄に何の変りもなかったが、今一つの組が肉身を具えたこの世の人たちでなかったのは、その物言いぶりが何よりもよく語っていた。紛れもない幽魂《たましい》そのものの声で、それを耳にすると、掘りかえされた墓土の黴臭い呼吸と、闇に生れた眼なし鰻の冷さが気味悪く感じられた。恐いもの見たさの物好きが強く働いていなかったら、若い漁師はそこそこに舟を漕いで、遠くへ逃げ出したかも知れなかった。
「すると、お前たちが心静かに月に見とれていると、そこへこちらの二人が無理に入って来たというのだな。」
 だしぬけにこういう声が聞えた。その声には、口喧嘩《いさかい》をし合っている輩《てあい》のものとは似てもつかない重々しい力があった。若い漁師はすぐにそれを社廟の神様のお声だなと気づいて、軽い身顫いを覚えた。
「さようにございます。手前どもが永い間閉じ籠められた常闇《とこやみ》の国から抜け出して来て、久しぶりに見たのが今夜の満月でございましょう。手前どもはあの青白い光を見ると、むかしのいろんなことを思い出して、唯もう夢のような気持で、水際の草の上に蝗《いなご》のように脛《すね》を折り曲げて、じっとあたりの静かさを楽しんでいたものでございます。そこへいきなり理不尽に割り込んでござらしたのがこの旦那衆で……。」
 喧嘩の片われは、下様《しもざま》な雑人《ぞうにん》だと見えて、言葉つきにどことなく自ら卑下したところがあった。他の一人がすぐ後を引取った。
「いさかいは、そこから始まったのでございます。手前どもの団欒《まどい》に、そこのお二人が割り込んで見えなければ、悶着《もめ》は起らなかったはずです。どうか正しいお裁きが願いたいもので……。」
「それはいかん。」神様は苦々しそうに相手をたしなめた。「おまえ達は、相当な身なりをしているくせに、何故あってそんな不作法な真似をするのだ。一体何者なのか。おまえ達は……。」
「詩人です。二人とも。」
 相手の一人は得意そうに言い放った。その声にはみだらな女と酒とのにおいがぷんと籠っているように感じられた。若い漁師はそれを聞いて、この人たちは詩を作ることを、魚を獲ることと同じように、立派な職業《しごと》だと考えているらしい。魚は市場に持って往けば、いつだって金に替えることが出来るが、詩と来たらてんで引取手《ひきとりて》があるまいに、可笑しな勘違いだと思って、口もとに軽い微笑を浮べた。
「そうか、詩人か。」神様は二人の男が詩人だと聞いて、いくらか気持が更《かわ》ったらしく、急に調子を荒らげて相手の雑人を叱りつけた。「何だ。貴様たち。こちらは文字のある先生方じゃないか。下衆のくせに寄ってたかって、先生方に反抗《はむか》うなんて、恥知らず奴《め》が……。」
「滅相な。手前どもがこの旦那衆に反抗《はむか》うなんて、そんな……。」相手の一人がびっくりしたように言った。持病の喘息で生命を捨てたものらしく、言葉を急き込む度に、ぜいぜい息切れがするのが手に取るように聞えた。「そんな間違ったことはございません。喧嘩《いさかい》の種を蒔いたのはこの旦那衆です。静かに月を見ている手前どものなかへ割り込んで来るなり、鵞鳥のような声でもって、何だか、へい、訳も解らないことを、ぎゃあぎゃあ我鳴り立てなすったものだから……。」
「そんな高声で、何をまた議論し合ったのだ。」
 社廟の神様は、詩人たちに訊いたらしかった。
「無論詩のことでございます。」きっぱりと返事をするのが聞えた。「その他《ほか》のことは、何一つ論ずる値打がありませんから。」
「ほう、詩のことか。詩のことなら、議論の題目として何不足はないはずだ。」神様も恋をする若い人達と同じように、詩は大の好物らしかった。「お前達も、黙って聴いていればいいじゃないか。」
「聴いてはいませんでしたが、黙ってはいました。なぜと申しまして、聴いたところで手前どもにはあまり難かしくて、とても解りようがなかったのですから。すると、この旦那衆は、黙っているのが気に喰わないと見えて、また一段と声を張り上げて喚き散らしなさいます。これでもか、これでもかといった風に。それを辛抱《がまん》しかねた仲間の一人が、
「どうか少しお静かに願います。」
といったものです。すると、こちらの旦那衆が、
「何っ。」
と、いいさま、いきなり起上って拳《こぶし》を振り上げなさいましたので……。」
「何でも、へい、世間の噂には、江都の詩人汪先生は、友達が宋代とやらの詩を貶《けな》したからといって、えらく腹に据えかねて、いきり立って議論を吹っかけたので、近くの樹にとまっていた小鳥が、みんな逃げてしまったそうに聞きました。一体詩人というものは、みんな牛のように吼えるものと見えまして……。」

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