も前からあの人が、今日の相撲につりに来るということを聞いて知っていましたのです。」
「ほう、誰の口から。」
「常陸関自身の口から。あの人は決して嘘を言いません。つると言ったが最後、外の手が出せる場合でもそれをしないで、つりぬくという気象ですから、私は安心してそれを防ぐ工夫ばかしをこらしました。顔が合って四つに組むと、常陸関はすぐにつりに来ました。私はかねての工夫通り外掛で防ぎました。二度目にまたつりに来ました。今度もどうやら持ちこたえました。すると、三度目のあのつりです。とうとう牛蒡《ごぼう》抜きにやられてしまいました。いやはや、強いのなんのといって、とてもお話になりません。」
 私はその話を座敷に居合せた友人から聞いたので、早速それを認めて徳富氏に手紙を出した。氏からは何の返事もなかった。

     3

 徳富氏が最初の聖地巡礼に出かけるときのことだった。私と懇意なK書店の主人は、見送のためわざわざ神戸から門司まで同船することにした。
 船が門司近くの海に来ると、書店の主人は今まで興じていた世間話を急に切上げにかかった。
「先生。私に一つのお願があるんですが……。」
「願い。――」徳富氏は急に更まった相手の容子に眼を光らせた。
「実は今度の御紀行の出版は、是非私どもの方に……。」
 その言葉を押えつけるように、徳富氏は大きな掌面《てのひら》を相手の鼻さきでふった。
「待って下さい、その話は。私暫く考えて返事しますから。」
 徳富氏はこういい捨てておいて、大跨に船室の方へあるいて行った。
 ものの一時間も経つと、徳富氏はのっそりとK氏の待っている室へ入って来た。
「Kさん。あなたさっき門司からの帰りには、薄田君を訪ねるといってましたね。」
「ええ、訪ねます。何か御用でもおありでしたら……。」
「じゃ、御面倒ですが、これをお渡し下さい。」徳富氏はふところから手紙を一通取出した。「それから、あなたには……。」
 K氏は何かを待設けるもののように胸を躍らせた。
「あなたにはいいものを上げます。私の原稿よりかもずっといい……。」
「何でしょう。原稿よりかもいいものというと……。」
 K氏は顔一ぱいに微笑をたたえた。それを見下すように前に立ちはだかった徳富氏は、宣教師のようにもの静かな、どこかに力のこもった声でいった。
「神をお信じなさい。ただそれだけです。」
「神を……。」書店の主人は、その神をさがすもののように空虚な眼をしてそこらを見廻した。
 船は門司の沖に来かかったらしく、汽笛がぼうと鳴った。
 海近い備中の郷里の家で、私がK氏の口からこんな話を聞きながら、受取った徳富氏の手紙には、次のような文句があった。
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不図思ひ立ちてキリストの踏みし土を踏み、またヤスナヤポリヤナにトルストイ翁を訪はむと巡礼の途に上り申候。神許し玉はば、一年の後には帰り来り、或は御目にかかるの機会ある可く候。
大兄願はくば金玉に躯を大切に、渾ての点において弥々御精進あらんことを切に祈上候。
  一九〇六、仏誕の日関門海峡春雨の朝[#地から1字上げ]徳富健次郎
[#ここで字下げ終わり]

     4

 私は一度K書店の主人と道づれになって、今の粕谷の家に徳富氏を訪ねたことがあった。門を入って黄ばんだ庭木の下をくぐって往くと、そこに井戸があった。K氏はその前を通りかかるとき、小声で独語のように、
「そうだ。労働は神聖だったな。」
と、口のなかでつぶやいたらしかった。私はそれを聞きのがさなかった。
「何だね、それ。」
 K氏は何とも答えなかった。二人は原っぱのような前栽のなかに立っている一軒家に通された。日あたりのいい縁側に座蒲団を持ち出してそれに座ると、K氏はにやにや笑い出した。
「さっき井戸端を通るとき、私が何か言ったでしょう。あれはね、以前私がこちらにお伺いしたとき、先生が、自分の代りに風呂の水を汲んでくれるなら、面会してもいいとおっしゃるので、仕方がなく汲みにかかりました。こちらの井戸は湯殿とは大分遠いところにあるので、なかなか容易な仕事じゃありません。やっと汲み終えて、客間へ通ると、先生が汗みずくになった私の顔を見られて、
「Kさん。労働は神聖ですな。」
と言って笑われましたっけ。今あすこを通りかかって、それを思い出したものですから……。」
「いつぞやの「神を信ぜよ。」と同じ筆法だ。徳富君一流の教訓だよ。」
 私がそういって笑っているところへ、主人がのっそりと入って来た。そしてそこらを眺め廻しながら、
「この家いいでしょう。土地の賭博打がもてあましていたのを、七十円で買い取ったのです。時々勝負のことから、子分のものの喧嘩が初まるので、そんなときの用意に、戸棚なぞあんなに頑丈に作ってありますよ。」
といって、家の説明などした
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