保へ往って、湯に浸りながら療養を尽しているということを聞くにつけて、この分ならば遠からずきっと快くなるだろうと思っていたのに、とうとう歿くなってしまったのは、残念の限りである。
徳富氏と私との交遊については、二、三年前刊行した私の『泣菫文集』に書いたことがあるから、ここにはなるべくそれに洩れた事柄を断片的に記して、この老文人がありし日の面影をしのびたいと思う。尤も話の都合上、前後聯絡のあるものは、記述が文集のそれと多少重複するかも知れないが、その辺は止むを得ないこととして、どうか大目に見てもらいたい。
私が初めて徳富氏に会ったのは、明治三十四、五年の頃で、その頃氏が住っていた東京の郊外渋谷の家でだった。三宅克己氏の水彩画がたった一枚壁にかかった座敷で、二月の余も鋏を入れないらしい、硬い髪の毛がうるさく襟筋に垂れかかるのを気にしながら、氏はぽつりぽつりと言葉少に話しつづけた。言葉つきも、態度も、極めて謙遜だったが、談話のところどころに鋭い皮肉が刃物のように光るのもおもしろかった。しかし、それよりもなおおもしろかったのは、百姓のそれを思わせるような大きな右手の人差指で、話をしいしい、気忙しく畳の上に書きものをする癖で、それとなく気をつけて見ていると、その書きものは、いろはとなり、ロオマ字となり、漢字となり、時には大入道の頭になったりした。
ちょうどその頃『不如帰』が出版せられて、大層評判が立っていたので、話はおのずとその方へ向いていった。
「こないだも喜多村緑郎君がやって来て、あれを芝居に仕組みたいからと相談を受けましたが、あれが芝居になるかしら、なると思うなら、あなたの方でいいように仕組んで下さいと返事すると、そんなら私の方で芝居にするから、舞台にかけたら是非一度見に来てくれというのです。自分の恥を大勢の中へわざわざ見に往くものがありますかというと、喜多村君変な顔をして帰って往きましたっけ。」
徳富氏は両手を胸の上に組んで、とってつけたように笑った。しばらくすると、氏はだしぬけに
「島崎藤村君が、こないだ国木田独歩君などと一緒に訪ねて来てくれて、久しぶりに大層話がはずみましたよ。」
といって、こんなことをいい足した。
「ところが、その後島崎君がある雑誌記者に向って、
「徳富君もこの頃では、玄関をこしらえるようになりましたね。」
と話していたそうです。私は玄関など設けたことはありません。私にはそんな必要がありませんから。」
言葉の調子に、どこか不平らしいところがあった。私はどういって返事をしていいかわからなかった。
2
徳富氏の『黒潮《こくちょう》』第一巻が公にせられたのは明治三十六年だった。この小説は作そのものよりも、兄蘇峰氏に投げつけた絶交書のような序文の方で名高かった。
その年の夏、徳富氏は大阪へ遊びに来て、私を訪ねてくれたことがあった。ちょうど博覧会が天王寺に催されていた頃で、その賑いをあてこみに、難波で東京大阪の合併相撲があって、かなり人気を引立てていた。
徳富氏も私も相撲は好きだった。尤もあの前後に生れ合わせていて、それで相撲を好かなかったという人があったら、そんな人は人生のどんな事柄に対しても、興味が持てなかったに相違なかった。それほどまでにあの頃の相撲は溌溂としていた。伸びゆく生命そのものを見るような感じがあった。
二人の話はおのずと好きな方へ向いて往った。徳富氏は黒い大きな塵よけ眼鏡の奥から、眼を光らせながらいった。
「昨日一日合併相撲を見ましたが、大阪方の若島は強いですね。手もなく荒岩を投げつけましたよ。荒岩の一生にあのくらい手綺麗に投げられたことは、二度とないかも知れません。ことによると、常陸山なぞもやられないにも限らない……。」
「若島はいい力士ですが、常陸山に勝とうなどとは思われない。」
私は客の言葉に承引が出来なかった。
「いや、勝つかも知れない。」
「分でゆくと、まず七三かな。」
「いや、そんなことはない。五分五分だ。」
「まさか……。」
二人は暫くそんなことをいい争っていたが、ちょうどそこへ外の来客があったので、話はそれなりになってしまった。
その場所での両力士は預りで、誰が見ても八百長の臭みが高かったということだった。
すると、その翌月だったか、合併相撲の顔触をそのまま京都へ持ち込んで、花見小路で興行したことがあった。その楽《らく》の日に若島は常陸山につり出されて負けたが、若島としてはなかなか分のいい相撲をとったので、ひいき客のある人が祇園下の料理屋へこの力士を招いて、言葉を極めてその日の相撲ぶりを賞めたてたものだ。若島は気恥かしそうに頭へ手をやった。
「いや。そうお賞め下さるがものはありません。今度こそ初めて常陸関のずばぬけて強いのに驚きました。実は私五日
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