た容堂は、
「対山は酒の吟味がいこう厳しいと聞いたが、これは乃公の飲料《のみしろ》じゃ。一つ試みてくれ。」
といって、被布姿で前にかしこまっている画家に盃を勧めた。
対山は口もとに微笑を浮べたばかしで、盃を取り上げようともしなかった。
「殿に御愛用がおありになりますように、手前にも用い馴れたものがござりますので、その外のものは……」
「ほう、飲まぬと申すか。さてさて量見の狭い酒客じゃて。」容堂の言葉には、客の高慢な言い草を癪にさえるというよりも、それをおもしろがるような気味が見えた。「そう聞いてみると尚更のことじゃ。一献掬まさずにはおかぬぞ。」
対山は無理強いに大きな盃を手に取らせられた。彼は嘗めるようにちょっと唇を浸して、酒を吟味するらしかったが、そのまま一息にぐっと大盃を飲み干してしまった。
「確かに剣菱といただきました。殿のお好みが、手前と同じように剣菱であろうとは全く思いがけないことで……」
彼は酒の見極めがつくと、初めて安心したように盃の数を重ね出した。
3
あるとき、朝早く対山を訪ねて来た人があった。その人は道の通りがかりにふとこの南宗画家の家を見つけたので、平素の不沙汰を詫びかたがた、ちょっと顔を出したに過ぎなかった。
対山は自分の居間で、小型の薬味箪笥のようなものにもたれて、頬杖をついたままつくねんとしていたが、客の顔を見ると、
「久しぶりだな。よく来てくれた。」
と言って、心から喜んで迎えた。そしていつもの剣菱をギヤマンの徳利に入れて、自分で燗をしだした。その徳利はオランダからの渡り物だといって、対山が自慢の道具の一つだった。
酒が暖まると、対山は薬味箪笥の抽斗《ひきだし》から、珍らしい肴を一つびとつ取り出して卓子に並べたてた。そのなかには江戸の浅草海苔もあった。越前の雲丹もあった。播州路の川で獲《と》れた鮎のうるかもあった。対山はまた一つの抽斗から曲物《まげもの》を取り出し、中味をちょっぴり小皿に分けて客に勧めた。
「これは八瀬の蕗の薹で、わしが自分で煮つけたものだ。」
客はそれを嘗めてみた。苦いうちに何とも言われない好い匂があるように思った。対山はちびりちびり盃の数を重ねながら、いろんな食べ物の講釈をして聞かせた。それを聞いていると、この人は持ち前の細かい味覚で嚼みわけたいろんな肴の味を、も一度自分の想像のなかで味い返しているのではあるまいかと思われた。そして酒を飲むのも、こんな楽みを喚び起すためではあるまいかと思われた。
客はそんな話に一向興味を持たなかったので、そろそろ暇を告げようとすると、対山は慌ててそれを引きとめた。
「まあよい。まあよい。今日は久しぶりのことだから、これから画を描いて進ぜる。おい、誰か紙を持って来い。」
彼は声を立てて次の間に向って呼かけた。
画と聞いては、客も帰るわけには往かなかった。暫くまた尻を落着けて話の相手をしていると、対山は酒を勧め、肴を勧めるばかりで、一向絵筆をとろうとしなかった。客は待ちかねてそれとなく催促をしてみた。
「お酒も何ですが、どうか画の方を……。」
「画の方……何か、それは。」
酒に酔った対山は、画のことなどはもうすっかり忘れているらしかった。
「さっき先生が私に描いてやるとおっしゃいました……。」
客が不足そうに言うと、やっと先刻の出鱈目を思い出した対山は、
「うん。そのことか。それならすぐにも描いて進ぜるから、今一つ重ねなさい。」
と、またしても盃を取らせようとするのだ。
こんなことを繰り返しているうちに、到頭夜になった。そこらが暗くなったので、行灯が持ち出された。
へべれけに酔っ払った対山は、黄ろい灯影《ほかげ》にじっと眼をやっていたが、
「さっき画を進ぜるといったが、画よりももっといいものを進ぜよう。」
独語のように言って、よろよろと立ち上ったかと思うと、床の間から一振の刀を提げて来た。そしていきなり鞘をはずして、
「やっ。」
という掛声とともに、盲滅法に客の頭の上でそれを揮りまわした。
客はびくりして、取るものも取りあえず座から転び出した。
戸外の冷っこい大気のなかで、客はやっと沈着を取り返すことが出来た。そして朝からのいきさつを頭のなかで繰り返して思った。
「あの先生の酒は、物の味を肴にするのじゃなくて、感興を肴にするのだ。私というものも、つまりは八瀬の蕗の薹と同じように、先生にとって一つの肴に過ぎなかったのだ――たしかにそうだ。」
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徳富健次郎氏
1
徳富健次郎氏が歿くなった。重病のことだったし、どうかとも思う疑いはあったが、いつも看護の人達にむかって、
「生きたい。まだ死にたくない。」
と、力強い声で叫んでいたということを聞き、因縁の深い、好きな伊香
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